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【一般の部】<日本医師会賞>
「聴診器とハーモニカ」


菱川 町子(愛知県)

 脳梗塞と胃癌(がん)で7か月にわたる夫の闘病生活は転院に次ぐ転院であった。最後の4回目は、余命1か月と宣告されて、ホスピス病棟に移った。初めての回診の日、主治医のH先生は穏やかな口調で質問した。

「ご主人はどんな人ですか」

 病状について質問されるとばかり思っていた私は戸惑い、答えに窮した。どんな人ですかと、もう一度頭の中で繰り返したとたん、胸に熱いものがこみ上げてきて

「優しい人でした…」

 と言うのが精いっぱいだった。

 今までどの医師も看護師も夫は患者でしかなかった。38年間勤め上げた教師であることも、私にとってかけがえのない夫であることも治療には関係のないことであった。体温や血圧を測定し、点滴や薬を投与して、経過が良好であれば問題はなかった。脳が正常に機能しているかどうかをチェックするために名前や生年月日、そして100引く7の簡単な計算を執拗(しつよう)に質問した。小学生でもできる簡単な質問に、ぎこちなく答えている姿は痛々しかった。

 食事が喉を通らなくなり水分しか受けつけなくなった時、水分の摂取量を毎日必ず聞かれた。昨日1日で250㏄と答えるのは、絶望を確認するようでつらいものだった。回診の度、張り詰めた空気の中で交わす会話に私はおびえ落ち込んだ。

 そんな時、どんな人と聞かれたことでこの人は人間修理工場の技師ではなく、病気になった人を治してくれる人だと感じた。そして今まで一度も感じたことのなかった安心感を覚え、全てを彼に任せようと思った。

「じゃあね。また明日。おやすみなさい」

 といつものように別れた次の日、夫は意識混濁となってうつろな目で朝を迎えていた。目は開いているのに呼んでも返事はなかった。手を握っても握り返す力はなかった。こんこんと眠り続けたかと思うと、突然目をぱっちり開け遠い彼方を見ていた。私は焦った。言わなければならないことがあるのに、私の手の届かない世界に行ってしまったのだと思うと、悔やんでも悔やみきれなかった。

 私は甘えることの下手な妻であった。仕事で悩んでいても夫に相談したことはなく、自分だけでもがいていた。力量不足でどうにもならない悔しさに、怒りをぶつけることはあっても、泣き言をいうのは誇りが許さなかった。夫はそんな私を歯がゆく思っていたのだろう。

「お前は一人でも生きていけるよ」

 ぽつりと寂しそうに言ったことがあった。そんな気持ちに気づかずに、素直にありがとうと言ったことがなかった。余命1か月と宣告されてから、いつかは言わねばと思いつつも、決心がつかず言いそびれていた。

 私が茫然(ぼうぜん)と立ち尽くしていると、病室にやってきたH先生は、これで意識を取り戻した人がいた、とポケットからいつもの聴診器ではなくハーモニカを取り出した。手のひらに入ってしまいそうなハーモニカは、夫が時折子供の頃を懐かしむように吹いていたそれと似ていた。H先生がハーモニカを口にあてると、素朴で温かい音が病室を包んだ。「うさぎ追いしかの山…」 聞き慣れた懐かしいメロディーは私の体を包み、心の奥までしみいるように流れた。どうか意識をとりもどしてくれますように、と祈るような願いをのせて、ハーモニカの音はゆらりゆらり子守歌のように夫を包んでいった。H先生が病室を去っても故郷のメロディーの余韻が移り香のように残っていた。私は夫の手を握り言った。

「…お父さん…ありがとう。あなたと結婚できて私は幸せでした…」

 夫の手がかすかに動いたような気がした。

 しかし夫の命が燃え尽きる日が刻々と近づいているのは確かだった。得体(えたい)の知れない不気味な黒い壁が私に襲いかかって来るような、底なしの暗闇に引きずり込まれるような不安な日々だった。そんな時、H先生は言った。

「菱川さん。死ぬってことはそんなに悪いことではありませんよ」

 初めは何を言っているのかわからなかった。死ぬのは悪いことではないとは、医者が、しかも死を前にした人に言うべき言葉とは思えなかった。なんて医者だろうと。しかし2、3日するとその言葉がだんだん体の中に入ってきた。人は誰でも死ぬ。ただ遅いか早いかだけで、どんな人も死から逃れることはできない。始まりがあるから終わりがあり、終わりがあるから新しい出発がある。H先生の言葉が地下水のように私の体を通り抜けた時、私は夫の死を受け入れることができた。あの黒い不気味な黒い壁が遠ざかっていった。今にして思う。H先生は絶妙なタイミングで私に死を受け入れる心の準備をさせてくれたのだ。夫の一周忌を済ませ、私は1人暮らしの新しい生活をスタートさせた。日本語教師養成学校に通い、2年間学んで資格をとり、現在モンゴルで若者に日本語を教えている。