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【一般の部】<入選>
「似顔絵」


徳武 葉子(長野県)

 決まってK先生が白衣のポケットから取り出すのは、一方が赤でもう一方が青い芯の太めの色鉛筆でした。「それであなたはいつから入院できるのかな」。〝君は〟とか〝あなたは〟と小学2年生の私に向かって言うのは先生だけでした。「あと2日間だけ家にいたいです」「よろしい。では自分で入院の準備をしたら、またここにいらっしゃい」「はい」「君は自分のことがよくわかっている。かしこいですね」。柔らかい陽(ひ)が差し込み、春風に真っ白なカーテンが揺れている診察室での会話だったことを覚えています。先生の言葉は厳格で声は優しく、いくらか垂れ下がった瞳は信頼できるものでした。

 私がネフローゼ症候群だと診断されたのは5歳の時です。それから数年間は入退院の繰り返しで、痛くも痒(かゆ)くもない体をベッドの上でもてあそび、意味のわからない医療用語が飛び交う空間で、私のことが私抜きでどんどん決められていく悔しさのため、幾度となく癇癪(かんしゃく)を起こしました。また初めての集団生活の愉快さと心強さを経験したのも病院で、一人遊びを好む私にとっては画期的な出来事でした。よく絵本を一緒に読んだじゅんこちゃん。ある日呟(つぶや)いた「私はもうじき天国へ行くのよ」という言葉通り、それから数週間後には旅立って行きました。泣きはらした目をしたじゅんこちゃんのお母さんが私の髪を二つに分け、ゆっくりと三つ編みをしてくれました。その手は冷たく、言葉にできない深い悲しみがあることを、子供ながらに肩越しに感じました。

 父の転勤に伴い病院も移ることになり、あれこれと思い出を抱えた私がK先生と出会ったのは8歳の時です。

 新しい病院での生活に慣れるのに時間はかかりませんでした。毎日の回診では、淡々と聴診器を胸にあてて特に言葉無く去って行く先生もいれば、私の読んでいる本について興味深く質問をする先生もいました。K先生は仰向(あおむ)けになった私のお腹(なか)を時間をかけて触わります。そしてベッドの横のイスに座ると白衣のポケットから色鉛筆を取り出し、青色のほうでカルテにさらさらと書き込んでいきます。その後の時間を私は何よりも楽しみにしていました。びっくり箱のように毎回違う質問が飛び出してくるのです。「君はどうしてヘビやカエルが地面に這(は)いつくばっているか知っていますか」「算数や国語をなぜ勉強するのか考えたことがありますか」。私は先生の口からどんな質問が飛び出すのか、胸を躍らせながら待ち構えていたのでしょう。

「そんなに大きな目で僕を見ないでくださいな」と言われ、人の顔を見て話すことが苦手だった私は真っ赤になってうつむきました。私が必死に考え出す答えは全部正解で、笑顔で聞いている先生はそれもカルテに書き込んでいきます。返答に詰まると次回の回診までの宿題になりました。病院内にいながら頭の中はアマゾン川流域にワープしたり、富士山の頂上に降り立ったりと、開放的な気分の心地良さは私の身体の隅々にまで行き渡っていきました。

 赤色鉛筆に持ちかえてカルテのまっさらなページを開くのを合図に、私はベッドの上で正座をしてパジャマの襟を正します。なぜ時々似顔絵を描くのか先生に尋ねたことがありました。「今のあなたの様子がよくわかるからですよ」。鉛筆を走らせながら先生は答えました。退院を間近に控えた時のことです。「おや、緊張していますね。どうしましたか」。先生の質問に私は答えました。「退院したら学校へ行きます。久し振りに教室に入って行くのが、ちょっと…心配です」「朝は『おはよう』、帰りは『さようなら』と挨拶(あいさつ)をするのです。それで十分ですよ」「お昼は『いただきます』と言います」「そうです、そうです。人は挨拶が大事なんです」。私は似顔絵を描いてもらう時間を通して、言葉を交わさない会話があることを知りました。

 先生との珍問答は私が高校を卒業するまで続きました。中学に入ると病気は姿を消し、その後は風邪や腹痛を理由にして病院へ行き、私の気に入った問題が載っている数学の教科書のページを開いては、私の一方的な説明を先生に聞いてもらっていました。

 現在私は塾の講師をしています。子供2人にも恵まれました。当時を振り返り、年齢を重ねてこそ分かることがあります。K先生は私の病気だけを切り取ってみることはなく、常に全体の調和を大切に守り育ててくれました。今の私の仕事にどれだけ活(い)きているか計り知れません。似顔絵を描きながら無言で私を見つめる先生の瞳は、私の心の支えになっています。