厚生労働大臣賞

「夏がくれた新しい生命」

山口県宇部市・教員
猶 希世子(45歳)

 

 それは夏の真っ盛り。十歳の娘は骨髄移植を受けるために、家から三時間の所にある病院に転院しました。四歳で白血病と診断され、抗がん剤や放射線治療の効果があって、一度は人並みの学校生活も楽しめた後の再発でした。

 小児病棟に着くとすぐ、娘に優しく語りかけるように、小児科のスタッフ全員の紹介がありました。主治医だけでなく、スタッフ全員が娘のことを気にかけて下さるのだという安心感を覚えたものです。

 そして、主治医から娘に対して告知をしたいという申し出がありました。「十歳の子が一人で無菌室でのつらい治療に耐えるためには、本人が病気を治したいという強い意志が必要です。わかりやすい言葉で説明して、本人の意志を確認したいのですが、どうでしょうか」ということでした。私たちは、それまでに病名や簡単な病気の説明はしていましたが、主治医の真剣なまなざしと、その奥にある優しさを感じて、提案を受け入れました。

 主治医は体の絵を使ったり、実際の無菌室を見せたりして、わかりやすい言葉ではあるけれど、ごまかさずに説明してくれました。娘の口から「骨髄移植を受ける。そして、あの吐き気のする点滴をもうしなくていいようになりたい」という言葉が出ました。親としては、移植への不安はありましたが、娘が治療に対して自分の意志を持つように支えて下さる、医師の温かさを感じずにはいられませんでした。

 そして、移植へ向けて、親から離れて自分一人で薬を飲んだり、吸入をしたり、無菌室内での闘いに耐える準備の一か月が始まりました。自分の消化器系の殺菌をするためのヨーグルト状の薬は、何度も吐いては飲み直しが続き、つらそうにしていましたが、甘い言葉はかけられませんでした。それでも、同じ病棟の子どもたちとの楽しみを見つけた娘は、家から遠く離れた病院で、一人の入院生活をしばらく続けました。三人の妹弟に会える日を楽しみにしながらの一か月でした。

 「朝晩の人通りが少ない時に、病棟の外を散歩してもいいよ」という主治医の言葉に、病棟の子どもたちは、集団で涼しい風を求めて散歩をしていました。点滴スタンドを押しながらの子もいれば、車いすやベビーカーを押す子もいました。それぞれが病気を持ちながらも、助け合いが自然にできていました。医療担当者の優しさが、子どもたちに伝わっているのでした。

 いよいよ移植の日、骨髄バンクを通して見つかったドナーの骨髄液が、無菌室内の娘の体に一滴、一滴入っていきました。ガラス張りの無菌室の外から、その一滴の重みに言葉が出ませんでした。バンクができて、ドナーが見つかる日を夢見ながら旅立って行った患者さんやその家族の思いが詰まった一滴、一滴でした。前日までは、前処置の抗がん剤と放射線の副作用で、日に十数回もおう吐し、ぐったりしていた娘も、移植当日は起き上がって、ガラス越しにピースサインを送れるほど元気でした。

 ところが、ヨーグルト状の薬を吐き続け、ぐったりと横になったまま、つらそうに涙を流すようになるまでに、そう時間はかかりませんでした。ガラスに手を当てて、「お母さん」と、泣き続ける娘の手をどれだけ握ってやりたかったことか。そして、吐いても吐いても薬を飲ませる看護婦さんに、「どうか静かに寝かせておいて下さい。あんなにつらそうにしているのに」と、言いたくてたまりませんでした。私はどのくらい悲愴な顔をしていたのでしょうか。婦長さんから「お母さん、朝風呂の準備をしましたよ。それから、病棟用の自転車がありますから、少し散歩をして来たらいいですよ」と、声をかけられました。

 実は、娘の苦しむ姿を見ても、手ひとつ握ってやれない自分に耐えられなくなっていた私は、勧められるままに、風呂に入り、逃げるように自転車で病棟を後にしました。どれだけ走ったでしょうか。夏のにおいのする風に包まれて、遠くには濃い緑の山々がありました。堂々とした太陽が力強く輝いていました。訳もなく涙が止まりませんでした。病棟に帰ってみると、鬼のように見えた看護婦さんと娘が、無菌室内で殺菌した紙と鉛筆を使って五目並べをしていました。看護の厳しさと優しさを知ったような気がしました。

 娘が無菌室を出る日の早朝、病棟の外に出てみると、太陽の光が地平線から差してきました。そして、少しずつ少しずつ、辺りは生命力に満ちあふれた暖かい光でいっぱいになりました。そこには、両手を合わせて無心で拝んでいる私が居ました。気が付くと、何人もの患者さんたちの拝む姿もありました。

 「車いすで、外に出てみていいよ」と、主治医から言われる日が来ました。大きな木々に囲まれ、自分の足で大地に立った娘は、「うそみたい。外に出られる日が来るとは思わなかった」と、満面の笑みを浮かべたのでした。