読売新聞社賞

「いよさん、頑張りましたね」

後藤 正子(42歳)
静岡県掛川市・主婦

 

 三年前の秋。稲刈りが終わるころ、母(義母)が「足が抜けそうにだるいよ。七十の歳を越すのはつらいやぁ」と疲れた声で言った。私が嫁いで十二年目にして初めて聞く母の弱音だった。一年中、父(義父)と一緒に米や野菜を作り、農閑期には縫い物をする働き者の母である。かかりつけの医院でレントゲンと血液の検査をしたところ、「血液に異常があるからすぐ大きな病院へ行って下さい」とのことだった。父に付き添われ市立病院へ行った。「治らないらしいよ」。帰ってきた母は一言そう言った。

 他の病院に行ってみようという私の誘いに応じ、家から車で片道約二時間の所にある大きな病院の建物を見た時、母は「ここなら治りそうだやぁ」とニッコリ笑った。早速の検査結果を、父母、主人の妹、私の四人は小さな部屋で聞いた。主治医の丁寧な説明は、誰もが納得できた。「血液の病気で骨髄腫と言います。一番気になることは、治るかと言うことですが、これは治りません。でも、でもですね、進行がゆっくりなんです。良くはならないけど悪くなるのは遅い。合併症さえなければ……お母さん、あと何年生きたい?十年?二十年?まだまだ生きられますよ」。私たちは飛び上がりたいほどのうれしさをこらえながら、先生とこれからの治療法について話し合った。

 治療の為に一か月入院した後、月一回の通院で様子を見ることになった。「一か月の入院か。まあこれもしようがないね。長生きは保障されたんだもん」と言う母に、一週間前のふさぎ込んだ顔はなかった。父、主人、小六の長男も、母を温かく見守る気持ちに張り合いが出てきた。

 入院生活は快適な様子だった。「どっこも痛くないし、上げ膳据え膳で本は読めるし、縫い物があったら持っといで」などとはしゃいでいた。世話好きな母は、いつ行っても部屋の室長さんだった。すぐに一か月が過ぎ、退院した次の日、自分で快気祝いのお返しを済ませてしまうほどの勢いだった。「腰が痛かったもんでねえ」と自分の病名は隠し通していた。「かわいそうだなんて思われたくないもんね」と言う母に、家族の同情なんて入るすきもなかった。ある時、母の腕を見た。両腕が注射の刺し跡で真黒になっていた。「点滴でも輸血でも、針を刺す時は必ず先生がやってくれるだよ。待たせてごめんねっていつも言うだよ」。他の患者さんに悪いと思っても、うれしい気持ちは隠せないようだ。長い待ち時間も黒く残る注射の跡も、先生の一言で帳消しになるようだ。

 去年の春、二度目の入院となり、そこで先生が言われたのは、「あと半年。好きなことをさせてあげてください」。思ってもみなかった家族だけの告知だった。退院しても週一回は通院しなくてはならず、家にいる時間を長くしてあげたいと、先生は隣の市にある病院を紹介してくださった。「もし今度の病院がいやだったらいつでも戻って来ていいからね」と、不安気な母に最後の針を刺しながら、何度も言われたそうだ。「なんか娘を嫁に出す父親の言うことに似てない?」と冗談を飛ばす母は、先生から大事にされていることにとても誇りを持っていたと思う。

 紹介された病院にもすぐに慣れた矢先、三度目の入院を余儀無くされた。「主治医の先生は若い女医さんだよ。美人だよ」「また看護婦さんに『いよちゃん』って名前で呼ばれたよ」。毎週末、外泊許可で家に帰って来る母の話に花が咲いた。主治医の先生とはお友達感覚で何でも話ができると、心底、信頼していた。「お刺身食べたいけど、お正月になったらいいよって先生が言ったから、それまでがまんする」と言って生物は絶対口にしなかった。

 母の最期はあっけなかった。父が作った「おはたきもち」を食べてから病院に戻り、肺炎がひどくなり、親族に見守られて息を引き取った。先生から「一言ずつお別れを言ってあげて下さい」と言われ、皆それぞれ母の枕元でお別れを言った。一番最後に先生は「いよさん、頑張りましたね」とやさしい声で言われた。母は聞こえただろうか。きっと照れながら喜んでいたに違いない。

 母の痛みや苦しみは計り知れなかったが、病気の母の周りには、いつも笑いがあり華があったように思う。母の気持ちを察して、骨髄腫という血液の病気だけどまだまだ生きられるよ、と希望を与えてくださったY先生。母の気性を充分理解し、看護婦さんと一緒に最期を看取ってくださったK先生。治らない病気と知っても母が絶望しなかったのは、このような先生、看護婦さんたちに出会え、見守られていたからだと思う。

 私たち家族一同、母とかかわった人たちすべてに感謝の一念である。

 ありがとうございました。