アメリカンファミリー介護賞

「ア・リ・ガ・ト・ウ」

山中 千紘(17歳)
山口県三隅町・高校生

 

 私に人生のターニングポイントがあるとすれば、三年前の「ひいばあちゃんの死」ではないだろうか。

 ひいばあちゃんの様子がおかしくなったのは、三年前のお盆が過ぎたころだった。それまでもかなり痴呆は進んでいたし、足腰も不自由になっていたが、食事は私たちと同じものを食べていたし、おむつがどうしてもいやで、ポータブルのトイレに、母や祖母に抱きかかえられてしていた。

 そんなひいばあちゃんの顔が変わった。目の光が弱くなり、感情がほとんど無くなったのだ。家族の中に緊張感が張りつめた。夏休み中だった私も、ひいばあちゃんのベッドのそばにいることが多くなった。何も考えていないように一点を見つめながら、それでも高熱のためにハアハアと肩で息をするその動きだけが、生きていることを証明している。祖母や母が忙しく介護する中で、私は何をすればいいのかわからなかった。そんな時、ひいばあちゃんが布団の中から私の方へ手を差し出した。私が夢中で手をギュッと握ったとき、驚くほど強い力で握り返してきた。

 「あっ、生きている」。ゆっくりと私の方へ顔を向けたひいばあちゃんを見つめ、手を握り続けるのが、私にできるただひとつの介護だった。

 あくる日、驚いたことに熱がうそのように下がって、少しだけど穏やかな表情が戻ってきた。家族の中にもほっとした雰囲気と一緒に、いつもの生活のリズムが戻ってきた。点滴だけで栄養をとり、おむつの生活になってしまったひいばあちゃんの顔には、以前のような表情はなかったが、ついそれさえ忘れてすぐそばで妹とばか騒ぎをしていた。そんな私たちを注意しようと部屋に入ってきた母が、「あらっ」と、ひいばあちゃんの方を見た。思わず振り返ってみると、ひいばあちゃんの口の端がわずかに上がっていた。

 「笑うちょるんやね。あんたたちを見ちょるのがうれしいんじゃろうね。ひいばあちゃんには、ひ孫のにぎやかな声が一番の薬じゃから、このままでえかろう……」。そのとき、私たちができる「介護」というものに気が付いた。少しでも楽しい気持ちにしてあげることが、食事や排泄の世話、主治医の往診と同じくらい大切なことだったのだ。

 夏休みが終わろうとしたころ、ひいばあちゃんの手に力がなくなり、だらりとして握り返せなくなった。色が変わってしまった目は、それでもわずかだけど、私たちの動きを追うようだった。兄、妹とそばにいたとき、私たちの方へしっかりと目を向け、口を少し動かした。私は、耳をひいばあちゃんの口につけるようにして、聞き取ろうとした。

 「えっ、なあに?」。声らしきものが出るのだけど、なかなか聞き取れない。ただの苦しい息だったのかと思った時、のどの奥から絞り出すような声を聞いた。「ア・リ・ガ・ト・ウ」

 それから二、三日後、点滴の最後の一滴がポトンと落ちるのと同時に、静かにひいばあちゃんは逝った。実はそのころ、私はひいばあちゃんの死を考えると、夜中でも泣き出したくなるようなパニック状態になっていた。でも、実際にその日を迎えると、意外なほど落ち着いていた。悲しくなかったわけではない。でも、ひいばあちゃんがそれほどかわいそうな人だと思えなかったのだ。

 自宅で家族に見守られながら逝ったひいばあちゃんを、たくさんの人がうらやましそうに、こんな死に方をしたいと言った。しかし、中には、「それは、実の娘さんやお孫さんの介護ですものねえ」と、血がつながっているから介護は楽だと言わんばかりの言い方をする人もいた。しかし、祖母や母を間近に見た私は、血のつながりのあるなしでは語れない、肉体的・精神的な負担があったことを知っている。その後制定された介護保険は、そんな祖母や母のような介護者の味方をしてくれるものなのだろうか。

 過疎化が進むわが町も、十軒先まで老人世帯である。いろいろな事情で若い世代がそばにいられないのだろうが、そんな風に老人に寂しい思いをさせている人たちだけに介護保険は有利に働くような気がしてならない。介護料がほしくて介護する訳ではない。介護料があるからといってできるものでもない。しかし、祖母や母のように、ひいばあちゃんを心を込めて介護した人たちが報われるような制度であってほしい。

 「ア・リ・ガ・ト・ウ」。ひいばあちゃんは私たちに素晴らしい遺言を残してくれた。あのふっくらとした胸にだっこされたこと。泣き虫の私の頭をなで続けてくれたこと。今も、幸せな思い出の中に私はいる。私には、ひいばあちゃんがいてくれたことに、「ア・リ・ガ・ト・ウ」。