特 別 賞

「交換日記」

藤村 賀子(30歳)
福岡県宇美町・主婦

 

 あれは二年前。私は八か月の妊婦だった。主人が出張で留守だったある日の夜中、私は何かしら言いようのない体の異変に気付き、目を覚ました。「おかしい。そんなはずは」。けれどその痛みは確実に十五分間隔で私を襲ってきた。出産までまだ二か月もあるというのに……。時計は二時をさしていた。小学校二年生になった長女はすやすやと寝息をたてている。結局、朝まで待つことにした。

 辺りが白んできたころ、私は自らハンドルを握り病院に向かった。途中、陣痛の間隔は五分おきになっていた。病院に着くと個室に案内され、薬を渡されて安静にしているように言われた。やはり早産しかかっていると言う。おなかの赤ちゃんにとって、今はまだ母親の胎内にいなくてはいけない時期なのだ。しかし、先生方の努力もむなしく、陣痛は治まるどころかどんどんひどくなり、午後六時過ぎ、私は救急車で大学病院に運ばれた。

 病院に到着して間もなく、赤ちゃんは産声を上げた。千八百十グラム。小さな小さな男の子だった。待ち望んでいた我が子にやっと会えたというのに、その小さな命は救急車に乗せられ、また別の病院へ移送されて行った。

 その後、私は五日間の入院生活を終え、退院した。赤ちゃんの名前は「泰地」と付けた。入院中、眠らずに考えた名前だ。私は泰地のいる病院に急いだ。

 広い病院の、五階の一番端に、その部屋はあった。「N I C U =新生児集中治療センター」だ。初めて耳にする言葉だった。一般の病室とはどことなく違う空気に戸惑いながら、私は受付のインターホンを押した。看護婦さんが出てきて優しい笑顔で迎えてくれる。中には、たくさんの保育器が並んでいた。すぐに、小柄な看護婦さんが私のそばに寄ってきて言った。「少し小さく生まれちゃったけれど、とても元気のいいお子さんですよ」。その看護婦さんは、泰地の担当をしてくれることになったらしい。

 昨日の体重、飲んだ母乳の量、どんな様子だったかなど、細かく教えてくれた。そして、保育器の横にぶら下がっているひも付きのノートは、今日からの私と看護婦さんの交換日記だと言う。「交換日記かぁ。何年ぶりだろう。小学校のころは友達とよくやったっけ……」。

 その日から私の病院通いは始まった。思うように体重が増えなくて焦ったこともあった。黄疸がひどくて母乳が中止になり、ショックを受けた日もあった。けれど、担当の先生、看護婦さんの温かい言葉に支えられながら毎日は過ぎていった。

 入院四十日目。ついに退院の日がきた。私や主人をはじめ、家族皆が待ち望んでいた日だ。その日、担当の看護婦さんはいなかった。夜勤明けだったのだ。

 大きくなった泰地をこの手に抱いて、これからはずっと一緒にいられると思うと、私は有頂天だった。退院しての帰り道、運転席にいた私は、ふとバックミラーに映った光景に目を疑った。主人が泣いている。私は見ないふりをした。すると、主人が口を開いた。「こいつがこんなに大きくなって元気で退院できたのは、病院の先生や看護婦さんのお陰やね」。主人は病院から持ち帰ったあの交換日記を見ながら泣いていたのだった。私は家に着くと、その交換日記のページを開いてみた。

 六月二十八日

 退院決定おめでとうございます。お母さんやご家族の方々の待ちわびた日ですから、とても喜ばしい事なのですが、やはり泰地君をもう抱っこできないと思うと寂しいですね。泰地君も退院を喜んでいるのでしょう。今朝はオッパイを七十tも飲みました。私は朝までの勤務なので泰地君を見送れなくて残念です。朝の母乳を飲ませながら、「頑張って大きくなるんだよ。もう、お父さんやお母さんに心配かけちゃダメだよ」と言い聞かせておきました。きっと頑張って大きくなってくれると思います。お母さん。何か心配なことがありましたら、いつでもお電話下さいね。毎日、沐浴、授乳にお疲れ様でした。約一か月半の間お世話になりました。ありがとうございました。いつか、泰地君が大きくなったら病院に遊びにいらしてください。大きくなった泰地君を再び抱っこできる日を心待ちにしています。泰地君。退院おめでとう!

 これで日記は最後だった。主人の涙の訳がわかった。いつもいつも笑顔で接してくれたあの看護婦さん。私は感謝の気持ちでいっぱいになった。

 あれから二年。息子は現在、すくすくと育っている。時々、あの交換日記を読み返してみる。今ではこのノートは私たちの宝物だ。

 たくさんの小さな命は三百六十五日、二十四時間、たくさんの人々の手によって支えられている。

 私はお世話になった方々に、心から「ありがとう」を言いたい。