佳 作

「息子の結婚」

大崎かず子(60歳)
小樽市・児童文学作家

 

 息子の結婚が人並み以上にうれしい。三十年前、出産まで母体が持たない危険があるため、あきらめるよう言われた子供だった。

 十二指腸潰瘍で入退院を繰り返していた私は、十八歳で胃の摘出手術を受けた。当時としては珍しく、胃をドーナツ状に形成したと聞いている。数年間、術後の経過をきく調査書が実家に届いていた。

 私は結婚し、故郷から遠く離れた小さな町に移り住んだが、体の不調は続いていた。

 無知だった私はその時も激痛に耐え、町立病院の外科医、O先生のもとへ運ばれた時はショック状態に陥っていた。診断は癒着性の腹膜炎。手術を待つ間、周囲の異様な空気に私は死を予感した。

 (たぶん、私は助からないんだ)。自分に言い聞かせ、悟りに似た思いに達した時、体の痛みはうそのように和らいでいた。全身麻酔で意識はないはずなのに、手術の様子を見ていた。そばに、戦死して写真でしか知らない父がいたのを覚えている。十数時間後、意識が回復した私の前に、O先生の笑顔がまぶしかった。

 それからの私は、人一倍、生きることに執着し、死の恐怖におびえるようになった。死を受け入れた時の、あの平穏さが怖かった。「一つ病室を空けておくから、安心していつでもおいで」。週末や夜半に腹痛を起こす私の性格を心配しての、O先生の冗談が胸に響いた。

 私のトラウマは消えないまま結婚して五年、術後三回目の入院で初めての妊娠を知った。驚きはO先生の方が大きく、カルテから目を離さず深いため息をついた。癒着がひどく、再手術の診断を受けた後だったからだ。

 「妊娠は母体に大きな負担をかけますからね、困りましたね」。O先生の言葉は、私の心に届かなかった。それより、私を選んでやってきた小さな命がありがたく、いとおしかった。

 「先生、わしの代わりに助けてやってや」。回診のO先生に、同室の寝たきりのおばあさんが口をはさんだ。O先生は、布団をかぶって泣いている私の頭に手を置くと、何も言わずに出ていった。夜、暗い待合室で嗚咽する、やせた夫の後ろ姿に私の心は乱れた。

 数日後、私は夫に付き添われ大学病院へ向かった。O先生の手紙を持って。その時の診断は分からないが、O先生は苦渋の決断をしてくれた。外科、産科と連携をとり、「がんばってみましょう。症状が悪化した場合は、母体を優先します。七か月間育てることができたら、赤ちゃんも大丈夫ですよ」。私たちは、すべてを先生方に委ねた。

 日々変化していく体に戸惑いながらも、決意が自信に変わってゆくのがうれしかった。赤ちゃん保険にも入った。不自由な体で生まれても動じないために。そして十か月、O先生も産科の医師も驚くほど私の経過は順調だった。私ではない、小さな命から、大きなエネルギーを受けているのが実感できた。

 雪が解けて、待ちに待った春四月、私は男の子を出産した。二日間の陣痛は、初めて経験する希望の痛みだった。

 「子どもに救われましたね。病は気からって言うでしょう。強い意志が医学を超えたのですよ。お母さんなんだから、どんと構えて」。O先生の叱咤激励は、その後転勤で遠く離れてからも手紙で続いた。

 でも、今度は親になった責任が別の不安となり、せめて十年生きたい、あと十年と執着する思いが、幼い子どもを情緒不安定な立場に置いてしまった。

 不安の中に育った息子は、何度もつまずき、引きこもった。あれほどの力を持って生まれてきたのに。私はO先生の期待する親になれなかったことを悔やんだ。

 でも息子は強かった。五年間、文学を読み、音楽を聴き、山を歩いて、自分の方向を模索していたのだった。学歴とも出世とも無縁の自然の中に身を置き、木工作家として創作に励んでいる。

 仁術に徹しておられたO先生は、北海道の恵まれているとは言えない地域医療に生涯身を置き、退職後もボランティアで老人医療にかかわってこられた。

 私は六十の年齢を前に、ようやく高齢化という同等のスタートに立とうとしている。もう不安はない。

 新年には、喜びと感謝の気持ちを、O先生に届けようと思う。一線を退かれ、静かに老いを重ねているO先生に、記憶のかけらでも残っていて欲しいと願いながら。