佳 作

「K先生、ありがとう」

木村レイ(73歳)
群馬県沼田市・主婦

 

 昭和六十年一月十日、私は県央の大学病院に入院しました。病名不明。全身の痛みで身動きさえままならず、食事も満足に取れない状態だった。病院には知人の紹介で緊急に入れて頂いた。第三内科に空きベッドがあるということで、車いすに乗せられて病室へ連れていかれた。そこまでは自分の意識の中に残っている。

 病室に入り、ベッドに横にしてもらう間もなく、検査、また検査で休む暇もない。食べられない上に吐き気が激しく、検査に行くストレッチャーの上で膿盆を抱えている状態だった。自分ではがんの末期だろうという気持ちだった。というのも、近しい友人ががんで亡くなったばかりで、症状がよく似ていたからである。

 全身の痛みに加えて、点滴と輸血の連続である。血管が細いので時間がかかり、二十四時間、休みなし。そのうちに呼吸が苦しくなり、大きな声でうなるようになった。

 今思うと不思議なことに、部屋の状況がまるで頭に入っていない。どこか地下道のような所を通って連れていかれた所は、夜店の隣の空き家みたいに寂しい所だった。このころから意識がもうろうとしていたらしい。

 病室に入ると、主治医の先生と若い研修医の先生が来られたのは覚えている。私の病状の悪さに先生たちも困り果てた表情だった。主治医の先生は、お手本を示すように、丁寧に診察をされたり問診をされた。その様子を真剣に見ている坊ちゃん先生。

 この先生(K先生)とのめぐり合いが、私に生きようとする意識を持たせた源だった。毎朝、必ず一番にパタパタと、つっかけ(スリッパ)の音をさせて入って来られるK先生。「お耳からちょっと血を採らせて下さいね」と言って採血をする毎日。時には静脈からも採血をするが、なかなか出来ない。「ごめんね。もう一度」とやり直し。苦しいのに加えてこの痛さだが、K先生の真剣な態度には腹も立たない。

 そのうちに、(十日ぐらいたってからか)意識もだいぶはっきりして、話も出来るようになると、K先生との会話がはずんだ。それが何よりの楽しみでもあった。K先生は、ちょうど私の長男と同年齢ぐらい。

 注射も採血も上手いとは言えないが、人間としての温かさは抜群だ。ある日、主治医の先生より先に診察に見えた時のこと。胸に手を当てた時、思わず「冷たい!」と叫んでしまった。すると、「ごめん、ごめん。教授が、手をこすって温めてから聴診するんだって言われたのに。うっかりしてた。ごめんね」と、気持ちよく改められた。

 病院の多くの先生や看護婦さんたちのおかげで、二月になると食事が取れるようになった。そして少しずつベッドに起き上がれるようになり、アリの歩みのようではあるが、徐々に立ち上がることができ、三月の初めには車いすに乗れるようになった。これまでの節目、節目には、必ずK先生が付き添って下さった。

 「K先生、私の病気はどういう病気ですか」と聞くと、「まだ検査中だから、はっきり言えないけれど、ホルモンのバランスが崩れて骨が弱くなっているんだよ」と言われた。私は骨粗鬆症という言葉が頭に浮かんだ。でも、たとえどんな病気であれ、闘うしかないんだと思った。

 桜も散り八重桜が咲いたころ、K先生が車いすを押して病棟巡りをした時、「お花見は出来なかったけれど、あの藤棚の藤が咲く頃、帰れるかも知れないね」と言われた。「え、家へ帰れるんだ」と思わず言ってしまった。

 でも藤が咲いても、七階からは出られず、今度は何が咲くのだろうと思い、「先生、ひまわりが咲くころになるかしらね」と言うと、先生は黙ってしまった。そして「木村さん、外へ出たい?」と言われた。「出たいけれど、ダメでしょう」と言うと、さっさとエレベーターの方へ車いすを押して行き、エレベーターで一階まで降りて外へ出たのだった。「婦長さんにしかられないように。ちょっとだけ」と新緑の美しさ、自然の素晴らしさを味わわせて下さった。生きることの素晴らしさを深く感じた。「先生ありがとう」と心の中でつぶやいた。

 それから間もなく、K先生は病院から、どこかへ移られた。研修が終わってどこかの病院へ行かれたのか、患者には全く分からない。私は先生に歩行練習までしていただいて、六月二十四日に退院することが出来た。

 あれから十七年、私は生きられた。生かしていただいた。K先生の優しさは忘れない。私の病名は「多発性骨髄腫」。とても、むずかしい病気らしい。でも、元気で毎日を楽しく生きている。昨年、四十日間ほど、大学病院に入院した。当時の先生が何人かおられて「K先生」の事を話したら「助教授になって隣で教えているよ」と言われビックリ。翌日、K先生が面会に来て下さった。お顔はすっかり、助教授先生。K先生、ありがとう。