佳 作

「父との約束」

森本謙四郎(67歳)
東京都世田谷区・無職

 

 「ケンちゃん、お医者さんと病院に入る約束したりしないでね」

 父は亡くなる数日前まで、病院で最期の時を迎えることを嫌がった。その都度、「安心して。ずっと家にいようね。ボクがいつも一緒にいるからいいでしょ」「アリガトウ」こんな会話を、父と私との間で幾度となく繰り返した。

 二年半、ほとんど毎日、二十四時間つきっきりで続けてきた在宅介護は、父が百歳と五か月になる直前で終わった。よく生きたなあという感嘆と、まだ元気でいてほしかったという父に対するいとおしみが、死後一年を経ても私の脳裏に去来する。父は八十代の終わりごろまでは、多少足の衰えなどはみられたが、とにかく元気だった。趣味の卓球は九十歳になってもまだ続けていたし、ボランティアとして公園の草むしりなどにも参加するくらいであった。

 それがまもなく、痴呆の徴候が見えはじめ、自分自身の健康管理が出来なくなるとともに、周りからかまわれるのも拒否するようになった。そうなると、必然的に頻繁にけがをしたり、病気になったりするようになって、九十歳の時、かなり重い胸膜炎を患って入院するという事体にまで至った。

 このころから、私の病院への付き添いや、身の回りの世話などが始まったのである。

 痴呆特有の物忘れ、被害妄想、徘徊、幻覚などが次第に生じてくる父に、心の用意のない家族の誰もが適切な対応をすることは難しかった。よって比較的子供のころから父と気の合った私が、寝室を同じにして、食事や身の回りの世話、外出時の付き添いなどを親密に続けていった。

 しかし、四、五年もたったころ、ますます痴呆が悪化して、もはや父を家に置いて私が勤務を続けていては、家族間の調和が保てなくなるほどの瀬戸際に立ったとき、思い切って退職し、父の介護に専念する決心をした。

 私が父の介護に専念することで、ひとまず家庭内の安定は保てるようになった。母も、父同様高齢で、体の衰えが著しく、家事に携われない状況にあったので、他の家族に家事全般を担ってもらい、父のことはすべて私が受け持つことになった。

 父は、痴呆の特性として無理難題を言い出すことも多く、一日の間でも安定した状態から不安定へと急変するときなど、立ち往生することもしばしばあった。しかし、内面的に通じ合うと、はるか記憶の底に沈んでいた父と子供だったころの私との結びつきがよみがえってきた。すると、それまで抱いていた父に対する固定的な観念が解け出した。不思議なことに私の方が父親のようなゆとりと愛情をもって、幼い子供を扱うように、親身になって接してやりたいと思うようになった。

 父の介護は、食事作り、着替え、清拭、排尿、排便など広範にわたったが、とりわけエネルギーと時間を要したのは排便時であった。父は極度の便秘がちで、ほとんど二日に一回くらい浣腸をしなければならないほどであったからだ。これが私にも父にも一仕事で、始めてから、便が出きってしまうまでに毎回四、五時間を費やした。それは、単に長時間を費やしたばかりでなく、ことに父にとっては耐えがたい苦痛と消耗の連続であり、その上排便が終わった後も肛門部の痔とただれに苦しめられた。

 この時ばかりは心を鬼にして、父に苦痛と消耗を強いねばならず、どれほど父に恨まれたことであろうか。

 また、三度の骨折が重なって、遂に寝たきりになってからの父は、昼間はほとんど眠り、夜は起きていることが多く、付き添う私は一睡もしないまま、翌朝を迎えねばならないことも珍しくなかった。

 ところで、介護制度のおかげで、ヘルパーさんによる支援をいただけたことは、一条の光明のごとくありがたく感じた。四六時中つきっきりで見守っていなければ、何をひき起こすか分からない父のような場合は、介護する者への心身の重圧は大きかった。

 私が介護体験の中で唯一楽しかったのは、食物に好き嫌いの少なかった父に、毎日工夫を凝らして、いろいろと献立を変えては食べさせてやれたことである。苦痛の多い中で、食事の時だけは喜んでいつも笑顔を見せていた父の、どこか無邪気な幼児に帰ったような表情が、今でも忘れられない。

 在宅介護は、その介護対象や介護体制の条件によっては、きわめて過酷なものとなることは避けられないかも知れない。にもかかわらず、どんなに苦しくても、わが家で死を迎えさせてほしいと願った父に、最期の一瞬まで寄り添い、幸福感を保たせてやれたことは、決して誤りではなかったと思う。