佳 作

「ありがとう」

齋藤嘉美(41歳)
長野県和田村・栄養士

 

 何を願っているのだろうか。病院のベッドで白い顔をして、ひっそりと眠っている幼い息子の寝顔を見ながら、何度もそう思った。

 生後七か月で白血病にかかってしまった息子は、白血病細胞に脳が侵され、そのために多くの機能を失ってしまった。自分では体のバランスも保てない。立つことも歩くこともできない。最も愛らしく成長していくべき日々が、命の灯を削っていく時間になっていた。お気に入りのオモチャを持つことができるのも左手だけ、右手は思うように動いてはくれなかった。そして何よりも、言語能力をも失った息子は、つらい闘病の日々の中で、ただ泣く事だけが、自分の苦しみを伝えるせめてもの抵抗だった。

 そんな我が子の幸せを少しでも探して守ってやりたいと願っていた。激痛を伴う治療に「痛い」の一言も言えない息子の、残酷な悲しみを誰よりもわかってやりたかった。

 病気が絶望的に進行する中で、その思いは更に強いものとなり、命を永らえる事よりも、刻まれていく命の時間を少しでも優しいものにしようと考えていた。そして、それをできるのは母である私しかいない、そうかたくなに思い込んでいた。

 ある日、息子の主治医が外来の診察の後に、改まった口調で話しかけてきた。「お母さん、一人で頑張ることはないんじゃありませんか。キー君には私たちもついています。気持ちはお母さんと一緒です。そろそろ入院してみんなでキー君をささえませんか?」

 病状の進行を承知の上で、再入院を選択せず、家で息子の最期を看取る覚悟もできていた。そのための準備さえしていた。主治医はそんな私の心を察していたはずだ。それでも再入院させてはどうかと、遂に口を開いたのだ。

 「一人で……」。その言葉を口にした時の主治医には、私と同じ悲しみを感じさせた。どうにもならない現実の中で、けれど一緒に……。その瞬間、私の心からスーッと力が抜けていくのを感じた。息子の残された時間を、出来る限り優しいものにしたいと願っていたのは私だけではなかったことに、その時ようやく気が付いた。

 点滴につながれる日々が始まったとき、主治医は息子に素晴らしい約束をしてくれた。「左手への点滴禁止、そうカルテに日本語で大きく書いておいたぞ。これで僕がいない時でも大丈夫だぞ」。

 医師として、そして人間として、息子の大切な左手の自由を守ってあげられることが、本当にうれしかったのだろう。主治医はとびっきりの笑顔で、息子に語りかけていた。この約束は最期の瞬間まで大切に守られた。息子の左手はオモチャをつかめなくなっても、宝物のように扱われた。

 血小板の少ないのを承知しつつ、硬いせんべいを食べさせて、口内からの出血が止まらなくなり、夜間に緊急輸血をしに行った時には、食べさせてすいませんと謝ったことを怒られた。「食べたいもの、食べさせたいものはなんでもあげてください。出血したら輸血すればいい、それは僕ができる」

 せんべいをかじりながら、血小板の届くのを待って親子で過ごしたあの夜は、悲しみと背中合わせなのに、ほのぼのとした穏やかな時間が流れていた。

 最期の瞬間が近いことがわかるようになってから、それまでかかわってくださった病院のスタッフは、勤務明けに病室に立ち寄るようになった。次に勤務する時、息子はいないかもしれない。誰も悲しみを隠そうともせず、涙を流しながらそれぞれの別れを告げていた。

 息子が発病し、入院した時の主治医が、転勤先の病院から深夜に訪れた。「おまえよく頑張った」髪の毛をクシャクシャなでながら、息子にしみじみと語りかけていた。

 最期の瞬間は、願った通りの優しさに満ちて訪れた。点滴と、心電図のモニターのみの静かな病室で、いつのまにか息子の命は境界線を越えて逝った。父親の体を枕にして、私が体をふいている時に、そっと心臓が動きを止めたのだろう。両親の腕の中にいて、それでもわからないまま逝ってしまった。

 この静かな最期は、医療スタッフの息子への愛情なくしてはありえなかったと、振り返ってしみじみと思う。

 医学の力では助けられない患者である息子。医療スタッフはその現実を認めた時点から、治す医療から支える医療へと切り替えてくれた。それも白衣を脱いだ心のままに。医学の限界を時には恨んだ私ではあるが、その限界を乗り越えるパワーを人間が持っていることを教えられた。

 何を願っているのだろう。息子の寝顔にいつもそう問いかけていた私は、亡くした後で更に思う。もしも言葉を話せたら、最初の言葉はなんだったろうか、と。「ママ」と言われたいと願いつつも、きっとたくさんの人たちに言いたい言葉は一つだろうと思っている。