佳 作

「ひまわり」

森田欣也(38歳)
愛媛県松山市・無職

 

 いつもと変わらぬ朝の検温の時でした。「亡くなったの」。わけのわからない看護婦さんの言葉に、「誰が」と答えると、小さな声で「おかあさんが……」。「えっ、誰が」「森田君のおかあさんが亡くなったの」

 頭の中は窓から見えるめずらしく積もった雪景色のようにまっ白くなり、もうその後の言葉は何も聞こえませんでした。

 母は、私が首の骨を折る事故に遭い、首から下がマヒする障害を負ってから、食事の介助から下の介助、床ずれの治療のために夜中でも三時間ごとの体位変換と、二十四時間ずっと付き添ってくれました。小さな体いっぱいで、体が動かないという私のいら立ちのすべてを受け止めて、笑顔で励まし続けてくれました。

 そんな日が一年ほど続いたころ、看病疲れから体調を崩し、体が丈夫なだけが取りえだと言っていた母は別の病院に入院することになった。私もリハビリを兼ねて、付き添いのいらない病院に移ることになりました。そこで出会ったのが、「努力はうそをつかない」が口癖の作業療法士のS先生でした。

 「自分で食事ができるように」とはじめたリハビリは、来る日も来る日も少しだけ動いていた右手で、プラスチック製の輪投げの輪を棒に出し入れすることだけを繰り返す単調でつまらないものだった。いくら努力したって一生車いす生活なんだし、いまさら食事ができるようになったからってそれがどうした…バカらしくてやってられるかという感じになり、S先生の顔を見るのさえうっとうしく思うようになりました。そんなころでした。母が亡くなったのは。

 つらい葬儀が終わってからは、今日が何月何日の何曜日なのかもわからなく、一秒が一分に、十分が一時間にも感じるほど進まぬ時計とにらめっこするだけの一日を過ごすようになっていました。

 青白い顔をして、心が死んでしまった私は、痛くてできないくせに何度も舌をかみ切ろうとした。そんな私の病室を、S先生は毎日かかさずのぞいてくれ、声を掛け続けてくれました。

 何度目かの「そろそろリハビリ室に降りて来ない?」の言葉に、仕方なくベッドから出てみると、外はすっかり季節が変わっていました。

 笑顔で迎えてくれたS先生は、二粒のひまわりの種を作業療法室の前にあるねずみの額ほどの庭にまき、水をやりながら、「明日から毎日、ちょっとでもいいからリハビリ室に降りてきて、ひまわりに水をやること」と言いました。「なんで水やり、なんでひまわり」と不思議に思いながらも、「あのつまらないやつよりかはヒマつぶしになっていいか」と、次の日から水やりがはじまりました。

 だけど、たかが水やりと言っても車いすでマヒした体には、水を少し入れただけでもぞうさんの形のじょうろは重く、ひまわりに水をやるどころか、自分の動かなくなった足にかけてしまう。そこで水やり用の補助具を作ってもらい、続けていた。一週間も過ぎたころには、あの種からは想像もできなかった、新しい小さな命の芽が生まれてきました。

 それからも、毎日、毎日のたかが水やりが、新しい芽を少しずつ少しずつ確実に育てていきました。

 リハビリのない土、日にも、父や妹、見舞いに来てくれた友人に車いすを押してもらって、水やりに行くようになりました。

 太陽に向かってまっすぐに伸びてゆくひまわりは、二か月も過ぎるころには車いすの私の背を追い越し、青白かった顔がたくましく日焼けをしたころ、大きな花が二つ、支え合うように、笑うように並んで咲きました。

 そのでっかい笑顔を見上げていると、やればできるという大きな自信と、母の、「欣也が頑張っているから、かあさんも頑張らなくては」という言葉を思い出し、後ろを振り向くと、「やっと笑ったね。努力はうそをつかないでしょ」と笑っているS先生が、いつもいてくれたことに気づきました。

 私は、父や妹、そのほかたくさんの人たちに迷惑をかけながらも、家で元気に生活ができるようになり、今も時々、病院を辞められたS先生とお会いしています。そしてその時必ず話題となるのが、補助具を使って食べたごはんがおいしかったこと。S先生は入院中の母と、私には内証で連絡を取り合っていたこと。そして、母はひまわりが大好きだったことをはじめて知った。それから、私の心にも咲いた大きなひまわりの花は、たくさんの種を生み、次々と新しい花を咲かせ続けているのです。