「学び」と「勉強」の違い

皆さんは、「勉強する」ことと「学ぶ」ことはどう違うか、はっきり区別することはできますか?二つの語にそれぞれどのようなイメージを持っているか思い浮かべてみてください。

それではまず、「勉強」について辞書を引いてみましょう。『大辞林 第三版』(小学館)によれば、

① 学問や技芸を学ぶこと。学習。

② ある目的のための修業や経験をすること。

③ (商人が)商品の値段を安くして売ること。

④ 物事にはげむこと。努力すること。

⑤ 気が進まないことをしかたなくすること。

とあります。多くの人は、まず①の意味を思い浮かべたと思うのですが、こう見ると「勉強」には意外と幅広い意味が含まれていると感じます。実は、「勉強」という言葉は時代によって大きく意味が変わっており、①の「学問や技芸を学ぶ」という意味が付与されたのは、明治時代以降になってからだといわれています。「勉強」の語義変遷をたどったある論文*1によると、本来は「物事にはげむこと」という意味で、そこから「気が進まないことをしかたなくする」という意味などが派生していき、「学問や技芸を学ぶこと」という用例が広まったのは明治時代頃だと推測されています。

ではなぜ、明治時代に「勉強」の意味に変遷が生じたのでしょうか。先ほどの論文では、「明治維新以降の教育振興、産業奨励に伴って、〈無理をしてでも、努力して学ぶ〉というポジティブな姿勢から、新たな意味での『勉強』の使用が次第に広まっていったものであろう。そして、立身出世、成功を収めるためには、学問に励み、技術を磨くことが必須のことであると説かれたからでもあろう」*2と指摘されています。

このことについて、もう少し詳しく考えてみましょう。江戸時代まで、日本は生まれや身分によって人の社会的地位が決まる社会でしたが、明治維新以降は人々を「能力」や「業績」に応じて選別・登用するようになりました。このような社会では、個人の「能力」が「客観的」かつ「正確に」測れなくてはなりません。その能力の指標の一つとして用いられたのが「学力」でした。国家が整備した近代的な学校教育制度のもと、学校では高度に普遍化・抽象化された知識や技術が教えられ、それをどれくらい頭に入れたかを試験で測り、成績をつけます。そうして可視化された「学力」は、その人の能力の反映だとみなされました。良い学校に行き、試験で良い成績をとることが、将来の仕事での成功や出世につながると解釈されるようになったのです。

このような経緯を鑑みると、勉強とは、「(将来の立身出世や幸せのため)辛くても我慢して学業に励む」というニュアンスを強く含んでいるということがわかります。

対して、「学ぶ」はどうでしょうか? 先ほどの『大辞林 第三版』で引くと、

① 教えを受けて知識や技芸を身につける。

② 勉強する。学問をする。

③ 経験を通して知識や知恵を得る。わかる。

④ まねる。

とあります。①や②の意味は、「勉強」とほぼ同じですが、③や④になると少し様子が違ってきます。実は、「学ぶ」という言葉は「まねぶ」、つまり「まねをする」という言葉から派生したものなのです。

このように語源をたどって考えてみると、同じような意味に思えた「学ぶ」と「勉強」という言葉が、ずいぶん違った印象を持って立ち現れてくるのではないでしょうか。「勉強」という言葉からは、寸暇を惜しんで机に向かうような感じを受けますが、「学ぶ」は幼い子どもが周囲の人の行動をまねたり、人が体験を通じて何かを知ることまで含む、かなり広い意味を指していることがわかります*3。

「学ぶ」を掘り下げてみよう

医師には、生涯を通じて学び続けることが求められます。医学・医療は日に日に進歩していますし、医療を取り巻く環境も変化を見せています。医学部入試に合格して、大学でもたくさんの試験や課題をこなし、医師国家試験に合格して晴れて医師免許を取得――それでもやっと、医師としてのスタートラインに立ったにすぎません。そこからもずっと学び続けることが必要だ、ということは、皆さんも何となく実感があるのではないでしょうか。

「学ぶ」とはどういうことか。どうすれば質の高い学びができるのか。医師には生涯つきものの、「学ぶ」という営みについて、一緒に考えてみませんか?

 

*1 胡新祥(2013)「『勉強』の意味変遷についての考察―明治大正時代を中心に―」『立教大学大学院日本文学論叢』, 13, pp.252-259

*2 同上, p.256

*3 参考:苅谷剛彦(1995)『大衆教育社会のゆくえ 学歴主義と平等神話の戦後史』 , 中公新書

No.32