がんと闘病しながら、研究も私生活もアクティブに
~放射線科医 前田 恵理子先生~(前編)

今回は、がんと闘病しながら、放射線科医として国内外で活躍され、プライベートでもアクティブに活動されている前田恵理子先生(写真右)にお話を伺いました。

喘息と闘いながら医学部合格

藤巻(以下、藤):前田先生は放射線診断の若き研究者として国内外でご活躍されています。一方でバイオリンの名手でもあり、水泳や空手にも励み、科学全般にも明るいうえ、一児の母でもある。活動の幅広さと熱量に驚愕するばかりですが、実はがん患者で、喘息にも長く苦しまれた背景をお持ちです。闘病しながらのこの華々しいご活躍には関心が尽きません。

さっそくですが、先生はなぜ医師を志したのでしょうか?

前田(以下、前):もともとサイエンス全般が好きで、幼児期の将来の夢は天文学者でした。天体望遠鏡で毎日星を眺めていたことが高じて、天体観測のための気象予測や、顕微鏡での鉱物観察など、地学分野にのめり込んでいきました。その後、小学4年生の性教育の授業で卵子と精子から赤ちゃんができることを知り、「人体って面白い!」と思うようになりました。それを機に、貪るように人体図鑑や家庭向けの医学書を読むようになり、小学6年生の頃には医学部を志すようになっていました。

:その頃はお父様のお仕事の関係で、オランダで生活されていたのですよね。

:ええ。小学5年生から3年半の間、現地のインターナショナルスクールに通っていました。その頃の英語と理科の授業が、今の私の基礎になっています。特に理科は、毎日2時間かけて実験を行い、宿題でレポートやエッセイを書く授業だったのですが、その形式は今振り返ると論文の書き方そのものだったのです。おかげで、医学部に入ってから現在まで、論文の書き方に困ったことはありません。

ただ、良い影響だけではありませんでした。渡蘭して1年後に喘息を発症してしまったのです。寒冷な気候やハウスダスト、受動喫煙などの要因もありますが、言語の違いによるストレスも大きかったと思います。

帰国後はさらに状態が悪化し、何度も救急搬送されました。中学3年生では心停止も経験しました。常に頭に酸素が足りておらず、学校の勉強になかなかついていけませんでした。特に数学では大きくつまずきました。オランダの数学は考え方を重視する授業だったため、日本の数学のような問題演習の反復に全く馴染めなかったのです。一時は医学部合格が難しいところまで成績が落ち込みましたが、やはり医学の道を諦めたくないと思い、そこから一念発起しました。できない部分を認め、一つずつやり直そうと、分数・小数から繰り返し学び直しました。そのかいあって、東京大学理科三類に現役で合格できました。

インタビュアーの藤巻先生。

キャリア形成と結婚・出産

:大学に入ってからの生活はいかがでしたか?

:教養課程の2年間は、かねてからの趣味であるバイオリンに熱中しました。また、喘息を治そうと入部した水泳部のつてで、大学病院で治療を受けることになり、吸入ステロイドで症状も落ち着いていました。

:しかし一転して、医学部進学後はホルマリンなどの薬剤や、臨床実習のハードさで、体調が悪化してしまったのですね。

:はい。大学5年生の時には在宅酸素を導入することになり、ショックでしばらく外に出られない時期もありました。実習を続けるのは難しいと判断し、1年留年することにしました。

:卒業後、放射線科に入局された後は、どのようなキャリアを歩まれましたか?

:初めは直接患者さんに接する放射線治療を志望していましたが、研修中に喘息が悪化し、治療を専門にするのは難しくなってしまいました。そこで診断の道に進み、そのまま6年目に専門医資格を取得しました。その翌年には結婚し、さらに1年後の32歳の時に出産しました。そして34歳の時、それまでの研究論文の積み重ねによって、学位を取得しました。

:結婚・出産後、生活に変化はありましたか?

:私の夫は医師ではなく、また家事にも協力的なので、結婚によって仕事に差し支えることはありませんでした。ただ、出産後は残業ができなくなりましたね。院内保育所に子どもを預けてはいたのですが、子どもの睡眠時間のことを考えると、夜の勉強会や院内カンファレンスなどには出席しにくかったです。どうしても出席しなければならない会がある場合は子ども同伴で出席したり、両親の協力を得たりして、何とかやっていました。もし出産がもう数年遅かったら、立場的に発言を求められる場面も増え、もっと困難が生じていたかもしれません。

 

がんと闘病しながら、研究も私生活もアクティブに
~放射線科医 前田 恵理子先生~(後編)

がん患者として、医師として

:研究や私生活も順調かと思われた矢先、37歳で肺がんが見つかります。ご自身で読影されたそうですね。

:はい。健康診断の胸部単純写真で結節影を見つけ、CTを撮ってみたら進行がんでした。手術と化学療法で治療しましたが、39歳で再発し、さらに41歳で小細胞がんに形質転換しました。がんになったことについては、ずっと喘息患者だったこともあり「一つ加わったな」という程度の感覚だったのですが、小細胞がんは中央生存値が8か月で、さすがに「まずい」と感じました。そこで、息子に自分の人生を書き残すべく、著書『Passion 受難を情熱に変えて Part1』*を執筆し始めたのです。その後もがんが再発しましたが、治療の合間に海外出張に出たり、講演を行ったり、時にはオーケストラで演奏したりしながら、今に至ります。

:がんになって、医師として変わったことはありますか?

:がんのフォローCTへの臨み方が変わりました。医師にとっては単純な読影でも、患者さんには検査前の不安と、何もなかったときの安堵という、ジェットコースターのような気持ちの乱高下があると気付き、より丁寧な読影を心がけるようになりました。

また、がんになったことに加え、出産・子育てを経験したことが、研究分野を確立する重要な契機になりました。子育てを通じて様々な年齢・体格の子どもに接する機会ができたからこそ、小児心臓CTの被曝低減に注力するようになったのです。頭で理解するだけでは得られなかった視点だと思います。

:最後に、医学生や若手医師にメッセージを頂けますか?

:医師はよく人柄が大事だと言われます。でも、医師は人柄だけでは務まりません。医学はサイエンスであり、医師の専門性は、サイエンスに立脚して患者さんの問題を解決することにあります。知識と技術を併せ持ち、科学的な視点から患者さんに医療やその考え方を提供することが、医師のなすべき仕事ですから、そのための研鑽と勉強は惜しまないでほしいです。その意味でも、大学院に進学し、サイエンティストとして一定期間エビデンスベースの思考に身をひたす経験は、非常に有意義なのではないかと思います。

 

*前田先生の半生記『Passion 受難を情熱に変えて』は、Part2まで出版されています(2020年1月現在)。

 

 

語り手
前田 恵理子先生
東京大学医学部附属病院 放射線科 特任助教

聞き手
藤巻 高光先生
埼玉医科大学医学部 脳神経外科 教授
日本医師会男女共同参画委員会委員

No.32