第3講 変容する過程としての学習(前編)

組織学習への注目

:先生、そういえば、このゼミのテーマは「チームで学ぶ、チームが学ぶ」でしたよね。これまでの経営学の話とそのテーマには、どう関係があるのですか?

先生:現代の経営学では、組織やチームがより良く動いていくためには、学習が不可欠だと考えられているのです。その理由について、アメリカの自動車産業を例に考えていきましょう。

前回、フォード社が科学的管理法をもとに自動車の大量生産を行い、成功を収めたという話に触れましたね。しかしフォード社は、たった20年足らずでゼネラル・モーターズ社(GM)などの企業に追い抜かれてしまいます。一方でGMは、その後約100年間、世界の自動車企業のトップを走り続けます。しかし2008年にはトヨタに抜かれ、翌年には経営破綻を迎えてしまいました。

フォード社とGMの敗因は、時代の変化や自社を取り巻く環境の変化に合わせて、経営方針や組織のあり方を柔軟に変えていくことができなかったという点にあります。フォード社は、T型フォードと呼ばれる小型で頑丈で安価な自動車を大ヒットさせました。10年も経つと、購入できる層には自動車が一通り行き渡り、次は買い替え需要を狙っていかなければなりません。顧客はT型に飽き、「他人とは違う車を持ちたい」と思うようになります。しかしフォード社はその顧客の変化に対応することなく、T型のみを作り続けた結果、幅広い製品ラインナップと頻繁なモデルチェンジを行うGMに買い替え需要をすっかり奪われてしまったのです
*1。一方、GMも大量生産・大量販売や、アメリカらしい大型車の製造という方針に固執し続け、燃費の良い小型車を生産するトヨタに敗北してしまいました。

:画期的な経営方針や革新的な技術があったとしても、時代に乗り遅れてしまうと、世界的な大企業であっても、あっという間に凋落してしまうんですね。

先生:特に、グローバル化や技術革新が進んだ現代では、世の中の変化のスピードも複雑さも増していく一方です。そこで、変化を認識し、組織のあり方を柔軟に変えていく「組織学習」という考え方が注目されるようになりました。組織学習の考え方自体は1960年代に誕生し、ほそぼそと研究が進められていたのですが、1990年代に入って一気に関心が寄せられるようになったのです。

:なぜ30年近く経ってから、急に注目されるようになったのですか?

先生90年代に入ると、多くのアメリカの企業では、少しずつ国際的な競争力が低下していきました。組織学習は、そうした状況を打破し、新たな方策を打ち立てる手段として脚光を浴びたのです。

 

*1 井原(2008), pp.100-104

 

 

第3講 変容する過程としての学習(後編)

「人が学ぶ」とはどういうことか

先生:ところで、ここまで「学習」という言葉を当たり前のように使ってきましたが、皆さんは、「人が学習する」とはどういうことだと思いますか?

:そうですね…。知識や技術を身につけることかなあと思います。医学部の勉強も、医師になるための知識や技術を身につけるためにしていると思うので。

:私もそう思います。授業で先生の話を聴いたり、実際に医療の現場に出て、知識や技術を身につけることかな、と。

:ただ、医学部での学び以外にも、部活などで、何か新たな発見や気付きがあった場合に、「今回はたくさん学びがあったね」なんて言うこともありますね。

先生:様々な意見が出てきましたね。授業で知識を獲得することも、何かの活動を通じて得た発見や気付きも、「学び」を構成する重要な要素だと言えるでしょう。

人は何か目的があるわけでも、誰かに何かを言われたわけでもないのに、自ら立って歩くことを覚え、言葉を習得し、社会と関わっていく存在です。何かのために学ぶのではなく、「少しでも良くなりたい」と本能的に学び続けることが、人の本質だとも言えるかもしれません
*2。

:なんだか、Y理論の「人は本来働くことが好きで、自然と創意工夫をする存在だ」という考え方とも似ていますね。

先生:いいところに気がつきましたね。実は、経営学における人間観の変遷のように、教育の世界でも、学習観に関する変化が生じています。

近代社会の、特に学校教育の場において、学びは「国家と社会に貢献する労働者となるために必要な知識や技能を、教師から教わって頭に入れる」という画一的で受動的なものでした
*3。学びの成果は試験によって測られ、子どもは「いい成績を取ればアメを、不合格ならムチを」あるいは「たくさん勉強してより良い学校に入り、社会的に成功する」という動機付けにより学ばされてきたと言えます。

90年代頃になると、教育学の中では、そうした学習のあり方への問い直しが盛んに行われるようになりました。学習は、個人が頭の中に知識を入れ、所有するというものではなく、ある状況の中で、個人とその周りにいる他者や環境との間で起こる変化の過程こそが学習ではないかという考え方が起こってくるのです*4。

:なんだか難しい話ですね…。

先生:例えば皆さんは、誰かに勉強を教えたときに「教えたことで自分の学びが深まった」と思ったことはありませんか?教える側が、教わる側に向かって一方的に知識を伝達していると考えると、教える側に変化は生じないはずです。でも実際は、教える側、教わる側が互いに影響し、変化を起こし合っていますよね。

また、臨床研修を終えた医師が医局に所属し、次第に一人前になっていく過程そのものも学習であると言えます。新米医師は、主治医を任されたり、手術の助手を任されたりしていくなかで、その科の基礎的な知識や技能を学んでいきます。そして次第に仕事の全体像を理解し、臨床面でも教育面でも重要な役割を担っていきます。それに伴い、医局に所属する他の人たちも、医局を取り巻く状況も、この医師の成長とともに少しずつ変化しているはずです。そうした変化の中で、医局の文化が維持されて受け継がれていく、あるいは、体質や制度が徐々に変化したり、ときには一新される。こうした過程全体を「学習」だとみなすのです。

:わかるような、わからないような…。ただ、「チームが学ぶ」というときの「学習」の意味と、最近の教育学における「学習」の意味は少し似ていますね。チームの中の個人が学ぶのではなく、チームそのものが何かしら変化していくことが、「チームが学ぶ」ということなのかなと思いました。

 

*2 佐伯(1995), pp.5-10
*3 木村・小玉・船橋(2009), pp.96
*4同書, pp.121-123

 

 

No.39