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支援情報

日本医師会女性医師バンク

女性医師の紹介

紹介者:小栗貴美子(元女性医師支援委員会委員)
愛知県在住/眼科医/M先生

そのときどきのワークライフバランスを取りながら

 M先生は、60代に入ったばかりの女性開業医です。
 もともと実家が開業していたので自分もそれを希望しておられました。はじめは内科を専攻しておられましたが、途中で同級生と結婚、重症を抱え家事との両立に苦労され、夫のほうが先に帰っていることもあったそうです。家事もやらなければというあせりもあり、内科をあきらめ、第1子出産後3ヶ月して大学病院眼科に入局。出来る科、続けられる科ということでの選択でした。3年半の研修の間、子どもは近くの保育所に預け、医局会、勉強会のときは学生のベビーシッターに依頼。その後は、関連病院にひとりで赴任。1年後、第2子出産のため、産休に入られ、その後年子での第3子出産のあと、連続して産休を取得することに気が引け、赴任先を退職されたそうです。しかし、間をおかず、地域の基幹病院に非常勤で勤務。少しずつですが、勤務時間を増やしていかれました。その間、第4子を出産。5年間、ほとんど休まずに勤務し、その後、実家近くで開業。卒業から13年目のことでした。このとき子どもは小5と幼稚園児3人。診療時間は子どもたちの通学、通園の時間帯を考慮して決めました。子どもたちが成長してからは患者さんの要望を考えて時間帯を決めたそうです。また、そのころより、地区医師会の理事に就任され、現在は副会長。オフの時間もせわしく活動していらっしゃいます。
 開業のメリットは、仕事量と時間を自分で決めることが出来ること、仕事場が住居と隣接しているので通勤時間ゼロであり、家事も子どもの面倒をみるのも楽であること、基幹病院に勤務していたので病診連携がスムーズにとれたこと、定年がないこと、自分のペースで働けられること等々です。ただ、開業資金の問題、従業員対策、事務処理の問題、自分の健康管理、家族の健康問題等、デメリットもいくつもあります。M先生は、「振り返ってみると4人の子育てをしつつ、自宅で仕事が出来、その両方があったからこそ、カリカリせずに精神的に余裕を感じ、人生で一番充実していたと思う」とおっしゃっていました。それぞれいろいろなやり方があるけれども、経済的には恵まれた職業ですし、その気になればいくらでも再就職は出来ますが、国の援助で資格をいただいているのだという謙虚な気持ちを忘れず、社会へ還元することが大事です。そのときどきの自分の状況にあわせて、仕事と子育ての両方を、ワークライフバランスを取りながら、趣味も自分の時間も入れ込んで、楽しみながら、休まず仕事を持続することが大切なことだと思います。また、そうすることは可能であると思います。

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紹介者:小菓 裕成(元女性医師支援委員会委員)
内科クリニック/N先生

障がい児の子育てと仕事をクリニック開院という方法で両立されているN先生

 N先生は平成3年に私立医大を卒業され、母校の内科に入局されました。その後は出身大学の附属病院に出向され、そこで今のご主人と知り合いご結婚されました。結婚後すぐに妊娠、出産となりましたが、ご主人の協力が得られそうなので、育児を優先しながら仕事も頑張れば将来に繋げやすいと考えておられました。ところが、子供が生後2ヵ月の時に重度の障がいがあることが判明し、生活設計が一変したそうです。小児科、整形外科、理学療法、療育と患者側の立場で病院へ通う事が多くなり、就学後も子供の体調は安定せず、目の離せない状態が続くため仕事への復帰は困難になりました。しかし幸いにして、第二子、第三子にも恵まれ、育児に追われながらもご主人の理解もあり、楽しく充実した日々を過ごされていました。
 その後、重度の心身障がいがある第一子の関係で、勤務医を続けるよりは開業する方が何かと都合が良いとの判断をご主人と相談し決められ、平成17年にご主人と共にクリニックを開院することとなりました。開院場所は支援学校に通わせやすい所を選んだそうです。ご主人が泌尿器科と皮膚科を診られ、N先生ご自身は内科を診られております。長いブランクはありましたが助け合いながら日々の診療と子育てに励んでおられます。幸い、第一子の体調も安定し登校日数も増えてきて、下のお子さんも11歳と9歳になり、以前よりご自身の時間が作りやすくなり、もっと何か出来ないかと考えられるようになってきたそうです。ただやはり、長期間のブランクは大きく、経験不足を補うことは難しく、また下校後の子供達と過ごす時間を大切にしたいという思いを持っておられます。その中で、今後も医療の仕事や勉強に関わる時間を自分のペースで増やしていかなければと考えておられます。
 理解のあるご主人の協力のもと、今後も仕事と子育てを両立させ、地域医療に貢献されるものと思います。

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紹介者:丸田 桂子(元女性医師支援委員会委員)
川崎市宮前区/M先生、K先生、Y先生、S先生

どの方を…と迷ってしまう程素晴らしい先生方ばかりなのです。

 私は、川崎市宮前区という小さな街に住んでいます。
 原稿の依頼をいただいて、さてどうしたものかと考えてしまいました。これ迄は、お一人の先生をピックアップされたお話が多く、どの方も素晴しい方ばかりでした。勿論我が区にも同様の素晴しい女性医師が溢れています。しかしながら、どの方を…と迷ってしまう程素晴らしい先生方ばかりなのです。
 我が区では年に1~2回、有志ですが、女性医師が集まる機会もっています。
 女性医師会員の占める割合は2割程度で、この有志の会に出席して下さるのは10人前後です。診療科は内科、小児科、皮膚科、耳鼻科、眼科など様々で年齢層もバラバラです。従って話題はバラエティに富んで活発です。
 M先生はとても魅力的な美しい先生で、お子様が4人いらっしゃいます。その診療所の事務長を務めてらっしゃるのは、御夫君です。そして、育児、家事を担うのも御夫君です。M先生の「診療と経営とに専念すればいいの」との話に対し、一斉にその場の先生達が
「羨ましいー!」と声が挙がりました。
「だけど、子ども達からは、ちゃんと母親にみえるように頑張ってフリフリの格好をしているの」と、ティーンズの様な可愛らしい笑顔でM先生は若いファッションのスカートの裾を一寸つまんでみせました。
 もう一人のK先生も診療のみに専念されている女性の院長でした。こちらは育児や家事はなく、経営の効率化などにより収入を高め、グルメ三昧の毎日だとか。
 Y先生は離婚後、4人の子育てと診療所経営に奮闘なさっていました。医学部に入学されたお子様がいらっしゃり、教育費、生活費など、とても大変だろうと思いますが、ご本人は若々しく、難なくそれをクリアされているようです。
 S先生は勤務医をしておられます。小柄で目のクリクリッとした先生ですが、やはり家庭は何人かのお子様と御夫君が守っておられます。「私は家事をしませんから」と、S先生が全幅の信頼を寄せてらっしゃる御夫君あればこそ、大勢の患者さんのつめかける診療所に辣腕を揮えるのでしょう。
 このように素晴しい女性医師の先生方のお話を耳にしながら、その活動が「2020.30」の動きにまだ結びついていないことを残念に思っています。

※「社会のあらゆる分野において、2020年までに、指導的地位に女性が占める割合が、少なくとも30%程度になるよう期待する」(第3次男女共同参画基本計画 平成22年12月閣議決定)という目標にあわせ、日本医師会では、「女性一割運動」に取り組んでいる。
 本センター事業では、この数値目標達成に向け、女性医師会員に日本医師会への理解を深め、将来日本医師会の活動に参加願うことを目的として「『20(ニイマル)20(ニイマル).30(サンマル)』推進懇話会」を開催している。

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紹介者:福下 公子(元女性医師支援委員会委員)
東京都内/眼科診療所/T先生

東京都内で眼科診療所を開設して約35年になる女性医師T先生

 昭和43年に私立医科大学を卒業、母校の循環器内科に入局し、入局後まもなく結婚。ご主人は基礎医学専攻の医師で、結婚3年目に米国に留学することになり、T先生は大学病院を退職されました。留学中は主婦業に専念し、第1子を出産。約3年後に帰国しましたが、実家が地方のため親には頼れず、子育ては自分でしなければならない環境であったことから、循環器内科に復帰することは困難と考え、生涯、医師として仕事を続けるため眼科医となり開業することを考えたそうです。母校ではない大学病院に入局し、自分より年の若い医師の中に入り、眼科の基本を学びながら、開業医を目指す研修生活を開始しました。当時の医局では、産休はとりにくく、さらに女性医師は、妊娠・出産後の復帰は困難でした。大学病院での3年間の研修後は関連病院に2年間出向、その後、第2子妊娠を機に退局し、開業の準備を開始。開業場所は、自宅に近く、保育所も利用可能な、診療所経営の上でも立地条件の良い場所を探したところ、私鉄沿線の駅近くの貸しビルが見つかり、約1年をかけて開業に向け準備をしたそうです。
 医学部卒業後の人生を振り返ると、医師の仕事を辞めようと思ったことは一度もなく、どのようにしたら続けられるだろうかと考えてきたそうです。T先生は開業医として地域住民への責任がある一方、家族や自分自身の人生も仕事の犠牲にならないようにしたいと考えてきました。若い頃の“ワークライフバランス”の“ライフ”は「子育て」、子供たちが成人したあとの“ライフ”は「地域活動」とのこと。医師に求められている仕事は、日々の診療の他にいろいろとありますので、医師会や眼科医会の公衆衛生活動にも参加されています。
 これからは、体力的に落ちてきますので、経験を活かした視覚障害者の医療相談事業をしていきたいと考えているそうです。その時その時に応じた医療の道があると思うと語っておられます。しなやかな生き方をされている女性医師です。

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紹介者:渡辺 弥生(元女性医師支援委員会委員)
兵庫県在住/眼科医/O先生

子育ての経験から神戸市で最初に病児保育を立ち上げたOさん

 O国立大学を1979年に卒業し、同大学眼科に入局、その後結婚し公立病院に勤務され、第一子出産のため退職されています。1980年に復職し、出身校の関連病院に往復4時間かけて通勤し、常勤医として眼科外来診療、入院手術に精力的に携わっておられました。その頃、子供が生後6カ月で10円玉大の円形脱毛になり、夜泣きが激しく夜も眠らなくなったそうです。母校の主任教授に相談すると「医者の代わりはいるが母親の代わりはいない。今、一番大切なことを優先したらよい。医者の修業や仕事はまたいつでも出来る」とのアドバイスを受け退職されました。
 1980年1月、ご主人が循環器科・胃腸科・外科・放射線科の病院を開院し、1983年には内科・眼科・小児科・整形外科・理学療法科を増設されたので、1983年から病院の眼科医師として勤務されました。同時に地元の大学眼科に入局し研究生として臨床経験を積んでおられます。その間、第2子と第3子をもうけ、眼科勤務医と大学研究生、3児の母親業の3足のわらじをはいて多忙な日々を送っておられたとのことです。
 1992年、ご主人が脳内出血のため46歳で急逝。突然のことでしたが落ち込む暇もなく夫の遺志を継ぎ病院長になられました。病院経営は分からないことも多く、寝る間も惜しんで経営の勉強をし、何とか病院を維持出来たと言われています。
 1995年に阪神淡路大震災が起こり、病院は半壊し、174床の糖尿病と透析を中心とした病院に立て直されました。保育所に関しては、1999年に神戸市で初の病児保育を始められました。これは保育園児の病気の子どもを家に一人置いて勤務に出なければならなかったご自分の辛い経験から開設された施設です。2003年には病児保育施設が神戸市に認定されました。その後、24時間365日の院内保育を含め、短時間正職員制度を取り入れ、女性が生きがいを持って働き続けることのできる職場づくりを目指しておられます。
 院長として病院を守り、発展させ、関連施設を作り、多く新しい試みを取り入れて明日に向かっておられる先生です。いつも明るく前向きな先生だから出来ることです。3人の子どもさんは巣立っていかれて、今は医師会活動にも積極的に参加され、生き生きと地域医療に貢献されています。

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紹介者:井之川廣江(元女性医師支援委員会委員)
広島県在住/眼科医/M先生

14年ぶりに復帰したM先生

 平成元年に医学部を卒業後、郷里の山口県に帰って眼科を専攻、山大眼科に入局後2年経過したところで医局のロテートとして公立病院に1年間勤務、また大学に戻って助手になった後大学院に入学、眼科専門医を取得、卒後10年目には学位の授与もされています。
 男性医局員と肩を並べて大学でのキャリアを積んでいたM先生でしたが、結婚・出産・育児・夫の開業(広島県での父の開業を継承)で生活は一変されたそうです。代々続く内科開業医の妻としての仕事をするのは当然という雰囲気の中で、子育てをしながら医院の仕事は保険請求など経営に関することが主で、自分が診療をする空間も時間も周囲の理解も見つけることが出来ないでおられたようです。
 子供が9歳と13歳になり同期の人達も指導的立場になっており、就業への希望が高まっていた時、当地大学の眼科教授が研修を快く受け入れて下さり週1~2回の外来診療・検査から始まりました。こんなに敷居を低くして受け入れて下さりありがたい・・・との気持ちで復帰されましたが、ネックになったのは電子カルテでした。検査の中にはびっくりするような進歩もありましたが、電子カルテに慣れるまでに時間を要することは想定外だったようです。担当教授も「ここをクリアすれば飛躍的に進歩されるでしょう」と太鼓判を押して下さっています。M先生も家庭を大事にしながら子供の学校行事にも付き合って、国立大学病院での臨床研修に励んでおられ今後が楽しみです。
 14年間のブランクがあっても、その前の9年間でしっかり基礎が出来ておられます。人生山あり谷あり、実力をつけれる時に頑張っていれば、また道は開かれるものです。

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紹介者:猪狩 和子(元女性医師支援委員会委員)
東京都在住/産婦人科医/Y先生(38歳)

いろいろなサポートが必要であると思う

 1998年M国立大学卒業後、S国際病院に入職し研修医を経て産婦人科医員になった。2001年N国立大学産婦人科大学院に入学、2004年に修了後留学。ドイツフランクフルト市で産婦人科臨床研修。31歳で第1子をフランクフルトで出産後、ロンドン市ビーチクロフト・メディカルセンターで家庭医の研修終了後帰国。
 帰国後は、33歳で第2子を日本で出産後、非常勤勤務をしながら厚生労働省科学研究班(HIV妊娠の啓蒙活動と予防)研究員として研究を行う。
 その中で子供を持つ女性医師が働く環境の厳しさを実感し、世界最高の教育が受けられると考えて、ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程(疫学)を受験。日本で35歳の時、第3子を出産直後に夫と、3歳、1歳、生後1カ月の3人の子供を連れて入学。 卒業後は37歳の時、ボストンで第4子を出産し、安倍リサーチフェロー(国際交流基金日米センター研究奨学金プログラム。安倍晋太郎元外務大臣が提唱し、設立された)に応募し、平成22年対象者として、同大学院の研究職に就任した。
 また、3月11日の東日本大震災後は日本プライマリ・ケア学会連合学会の被災地派遣医師として、石巻地区の妊産婦支援救護活動を行った。
 現在4人の子育てをしながら、日本医療機能評価機構客員研究員(女性医師バンクで就業成立)、D医科大学非常勤講師、非常勤医師(健診センターと診療所)として勤務し、キャリアアップをはかろうと努めている。
 しかし、急に子どもが病気になった時に見てくれる人がなく、やむを得ず急に欠勤することになるが、これを認めてくれる職場は少ない。
 また、通常時間内の保育園では夜間までの長時間保育が難しいため長時間勤務ができず、パート先の病院を紹介されても、診察時間の最後までできないという理由で、面接で断られる事もあった。

 いくら修業を積んでも子育て中の女性医師にはなかなか活躍の場がなく、パートタイム勤務の掛けもちとなって肩身の狭い思いをしている…。
 今後は、ベビーシッターや病児保育の問題を解決して、臨床経験を継続させるため、常勤をめざしてやっていきたいと考えているが、いろいろなサポートが必要であると思う。

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紹介者:家守千鶴子(元女性医師支援委員会副委員長)
産婦人科医師 不妊専門外来開業、F大学医学部臨床教授/50歳代

好きな事なら続けられる

 実家が産婦人科開業医だったので、産婦人科に入局されたのでしょう。その後、ご主人(脳外科医)と知り合い結婚。第一子ができてまもなくご主人の留学のため渡米。留学中は公園デビューも果たし、専業主婦としての生活を満喫されたようです。
 帰国後、やはり臨床に戻りたいと出身医局に戻り、そこで「不妊」というテーマに取り組むようになりました。黎明期です。「顕微鏡で見る卵子は美しい!虹のように光り輝いている!」と素面でも常に熱く語る彼女。産婦人科医師不足が叫ばれ、24時間お産に備えなければならない過酷な勤務がその原因とも言われていますが、彼女に言わせると「産婦人科はいいよ!お産で何事かあって呼び出されても手術は短時間で終わるし、終わった後の充実感も素晴らしいし、何より術後管理が他の外科と違ってあまり必要ないし・・・・。」こよなく卵子と産婦人科を愛している前向きな彼女です。
 ○十年前の医局です。中には当直もしないで・・・という陰口もあったことでしょう。けれども普段の当直はできないけれど日祭日の日直は率先して行っていたそうです。その間、どう交渉したのかは知りませんが? 脳外科医のご主人が子どもさんの面倒を丸一日みていたとか。医局の不満に対し、上司の先生がいろいろとご配慮してくださったのも有難かったと聞きました。やはり上司の先生の考え方、夫の協力なしでは第一線の医師として続けることは困難でなかったかと想像します。けれども、周囲の協力を引き出したのは、彼女の卵子に対する熱意ではなかったでしょうか。学会に行く時には子どもさんを友人宅に泊めて貰ったりもしたそうです。多少の障害があっても、熱意があれば周囲も変わってくるのではないかと思います。子どもさんも反抗期はありながら、現在では尊敬する母親として、仲良くやっているようです。
 そんな彼女は、40歳を過ぎて不妊専門外来を開業。医師会の役員にもなり、趣味のダンスで体を鍛え、現在では大好きな卵子に囲まれて毎日を忙しく過ごしています。興味を持った道であれば頑張れる・・・ですね。

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紹介者:高橋 克子(元女性医師支援委員会委員)
宮城県在住/I.Mさん

短時間正規雇用制度を利用して、子育てをしながら専門医を生かして働く

 N国立大学を2000年3月に卒業後、県立病院で研修、2003年T大学大学院入学。2004年結婚。研究生活の中を、2005年長女出産、半年間研究を中断したあと、復学し2007年3月大学院卒業。出産子育てのため、研究に没頭する毎日、とはいかなかった。
 学位取得後、医局人事で総合病院勤務となる。着任時1歳10ヶ月の長女を、3食食べさせてくれたうえ、夜9時すぎまで預かってもらえるシッターさんにお願いして、通常勤務をする。夫の協力も得られていたため、夜間の急変対応もなんとかこなしていた。この頃、内科認定医、血液専門医を取得。仕事は充実していたものの、母親として不十分とストレスも感じていた。
 2008年11月次女出産後は、専門医資格取得により、キャリアに一段落ついたこと、常勤の身分保障もあったため、1年間育児休暇を取得した。仕事と子育てのバランスを考え直し、母親として、子供にもっと手をかけてやりたいと思うようになったこと、協力的だった夫が、時間調整の難しい職場へ移動となったこともあり、通常勤務を続けることは難しいと考えた。
 そのころ、正規雇用短時間勤務制度ができたところだったため、その制度を利用し、2009年12月に復職。主に新患外来担当をする体制をとっていただくことになった。短時間勤務でも専門外来を続けることができ、細くはあってもキャリアをつなぐことができているうえに、子供のために時間をとれるようになり、とても満足している。
 今後いつから、通常勤務に戻れるかは具体的には考えていないが、どんな形でも医師の仕事は続けていきたいと考えている。

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紹介者:鹿島 直子(元女性医師支援委員会委員)
I総合病院周産母子医療センター新生児内科部長/M先生

30代半ばでの結婚・妊娠・出産、しかも継続してステップアップしてきたMさん

経歴
Q:はじめに先生のご経歴を教えてください。
A:N県立大卒、産婦人科入局、助手、3年後の平成3年に米国カリフォルニア大学アーバイン校(UIC)産婦人科リサーチフェローとして3年間の留学、帰国後は鹿児島県K市立病院産婦人科医員として入局、平成4年産婦人科専門医取得、同年産婦人科医師、平成5年同僚の医師と結婚、平成6年長女出産、育児休暇1か月、児の入院なども経験しました。平成9年次女出産、育児休暇なし、その間も周産期医療センター医長、科長と昇進し、センターは80床(NICU含む)で、勿論多忙、そして常に多くの後輩の指導もありました。いまもその生活に変わりはありません。平成19年鹿児島市I総合病院地域周産期母子医療センター新生児科部長。同年周産期専門医取得、平成20年学位を取得しました。新生児感染症(特に先天性サイトメガロウイルス感染症について)の研究、日本周産期・新生児学会評議員など多くの学会活動も続けています。

周産期医療と子育て
Q:ご夫婦お二人とも地元のご出身ではありませんね。子育ては如何されましたか。
A:長女、次女共に0歳から保育園に通園。長女が保育園に入園できるまでは、ベビーシッターを依頼、その後は家政婦と契約、しかし長続きせず4人の交代がありました。夫の留学を機に再びベビーシッターと当直時も含む長期契約、夫の帰国後はベビーシッターの紹介で再び家政婦と契約して、現在まで続いています。

若い女性医師へあるいは働く環境への提言など
Q:仕事と子育ての両立に対する先生の強い意志とたくましさがつたわってきます。これからの職場整備について、また女性医師にもひと言
A:
(1)保育園の確保、病児保育の必要性、特に夜間託児も可能な施設内保育所の必要性を強く感じます。宅直時も子供の世話は困難です。
(2)結婚、出産、育児を経験しながらも、私自身キャリアーパスを順調にステップアップできていると思います。育児に必要な人材確保に苦慮しましたし、経済的負担もありましたが、やはりなんといっても本人のモチベーションの維持により解決できたと思っています。

留学を含む着実なキャリアーをつまれ、社会的成熟も加わった30代半ばでの結婚、妊娠、出産を経験され、しかも継続してステップアップしてこられたM先生の生き方、たくましく育たれたお子さん方、敬服します。高校3年生のご長女はいま医学部目指して勉強中です。

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紹介者:秋葉 則子(元女性医師支援委員会委員長)
千葉県在住/内科開業医/Mさん(42歳)

介護、子育てをしながら地域医療に努めているMさん

 都内の大学を卒業し、内科入局の研修医2年目に父親が脳梗塞にて倒れた。自分の大学に入院させてもらって午前中は東京から千葉へ父の代診をつづけた。
 父親の退院後も家で介護しながら週4日外来を手伝い、午後は大学病院へ飛んで戻り勉学を続けていた。母が握ってくれたおにぎりを持って列車の中で昼食を済ませた。こんな状況でアメリカへの留学も断念、博士課程へも進めず大学での研修をあきらめた。そんな時今度は母親が糖尿病にて歩行障害が進行して入退院を繰り返すようになった。両親の介護におわれる毎日となった。しかし父の築いた診療所には患者さんが診察を待っていた。父親はまったく元へは戻っていないが患者さんと話すだけでも双方が満足していたみたいと彼女は振り返って話していた。
 36歳の時に結婚。男の子を授かった。ストレスといわれた心室性期外収縮多発で出産も危険を伴った。
 子育て、介護の両方でベットで休む日は無かったという。
 子供が2歳の時、離婚となり、父親は次第に認知症が進行、母親は透析治療にと環境はますます厳しくなった。
 こんな日々でも毎日外来で患者さんと向き合って自分の介護、子育ての生の言葉を伝えて理解を得られていることの喜びが大きいという。
 これからも診療をやめることはまったく考えておらず、地域医療に日夜努めたいと思っている。

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紹介者:村岡 真理(元女性医師支援委員会委員)
青森県在住/内科医/Tさん(50歳)

開業によってワークライフバランスを実現したTさん

【勤務医時代】
 24歳で医学部を卒業後、内分泌内科の医局に入局しました。大学院を卒業後も糖尿病の研究を続けるため、県内の自治体病院勤務と大学病院を行ったりきたりしながら約20年間、忙しい勤務医生活を送りました。
【結婚・出産】
 24歳で同じ内科医の夫と結婚し、30歳で第1子を出産しました。非常に忙しい勤務医生活でしたから、日中はベビーシッターに来てもらい、夜は青森市の実家の両親に子どもを預けました。比較的通勤しやすい勤務先で働くことができたこと、通勤に時間のかかる大学病院の時は外来勤務のみも可能だったことなど、医局も配慮してくれたようでした。
 いずれにしても、実家の母親が孫の世話をすることが可能だったことが忙しい勤務医生活と子育てを両立させるための必須条件でした。32歳で第2子を出産し、同様に実家と勤務先を行ったりきたりする生活が続きました。夫は同様に忙しい勤務医で、勤務先によっては単身赴任となることもしばしばでした。
【開業へ】
 子どもが小学校高学年になった頃、頼みの綱だった母親が介護を必要とする状態になったことがきっかけで、開業を考えるようになりました。勤務医として非常に多忙で、診療の他にも多様な業務に忙殺される日々の中で、専門の糖尿病の診療に十分時間をとりたい、子どもたちと向き合う時間が必要、高齢となった母と過ごす時間も欲しい、という思いが募り、ついに45歳の時に開業を決意しました。糖尿病外来を中心とした無床診療所を開設し、診療時間は9:00から15:00と短く設定し、下校後の子どもとゆっくり過ごす時間をとることをめざすと同時に、同じように子育て中の職員が働きやすい職場をめざしました。
【今は・・・】
 そろそろ余暇を楽しむゆとりもできたのではと思いきや、高3の次男の受験が済むまでは気を抜けません。しかし、自分のペースで仕事をし、学校の面談など母としても役目を職場にきがねせずに果たすことができるし、近くに住む高齢の両親にも日常的に会うことができるなど、仕事と生活のバランスという点ではかなり満足度の高いライフスタイルを実現できたと言っていいのではないかと思います。自分の時間が欲しいという理由で開業すること自体は珍しいことではありませんが、この場合は15:00で終業という思い切った「短時間勤務」を自分で実現し、雇用している職員もその恩恵を受けている、というところがポイントです。

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