日医ニュース 第917号(平成11年11月20日)
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日本耳鼻咽喉科学会秋田県地方部会は,昭和三十八年,(社)日本耳鼻咽喉科学会の要請で設立され,本年七月現在の総会員数は六十六名.
同部会では,難聴が原因で円滑な人間関係に支障を来している人々が増加している現況を鑑みて,秋田市耳鼻咽喉科開業医の会「竹林会」で発議された補聴器問題を取り上げた.
これを耳鼻咽喉科医療のなかに組み入れ,補聴器の選択や使用法等についてきめ細かく指導する体制を目指して,昭和六十一年に秋田県成人病医療センター内に補聴器相談室を設置した.
平成元年には,補聴器相談事業を秋田県全域に拡大するため,全県を巡回する補聴器診療車を設計・購入し,相談室と診療車の二本立てで事業を推進してきた.その成果は,第十八回身体障害者福祉医療講習会で発表.
昭和六十一年から平成十年までの十三年間に診療した新患者数の合計は,七千五百三十三名にのぼり,補聴器処方台数は,四千百十一台となっている.
さらに,全県的にこれを浸透させるため,事業の拡大と継続が必要と考えられる.
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昭和二十二年に横浜市医師会(港北医会)として創立し,昭和三十八年に会則改正が行われて港北区医師会と名称変更した.
設立当初より地域医療の向上にいちばん力を注いできたが,その代表的な事業が会員ひとりひとりが主役の発表の場である「港北医学会」や「学術講演会」である.すでに,二百回以上開催され,会員の学術水準の向上・研究発表大学との連携や実技実習などさまざまな方法で,地域に対して直接役に立つ最新の医学医療の実践に取り組んできた.
昭和四十九年の港北医療センターの建設,昭和五十年の休日急患診療所さらに昭和五十八年より肺がんや乳がんや消化器病やアレルギーの研修会,内科学会・東洋医学会など計二百回以上開催し,それぞれの分野でより詳しい学術対応を行い,もって地域に最新の医療を提供してきた.
平成七年には訪問看護ステーションも開設し,より良い総合的な地域貢献を果たしている.
平成十一年現在,会員総数二百五十三名で熊田会長のもと,会員一丸となり,地域医療の充実・推進にさらにいっそう貢献している.
医事衛生に貢献した医師会 |
長野県医師会が長野オリンピックの医療救護活動に果たした役割については,IOC医事委員会ならびにNAOCからも高い評価を得ている.
長野県においては,オリンピックの開催決定を契機にスポーツへの関心が高まり,平成三年「健康スポーツ医学委員会」を発足させた.このことが,今回の成功の基をなしたと考える.
平成五年,NAOCが設置した医事衛生専門委員会に,県医師会長を派遣するとともに,各分科会に県医師会役員を担当者として送り込んだ.
医師会の医療衛生活動は,競技者のみならず一般観客の救急医療体制,交通事故にまで及び,多くの難問を抱えたが,郡市医師会,県下各医療機関の協力を得て対応した.
大会期間中の医事衛生に関与したスタッフは,延べ八千百人あまりにのぼり,オリンピック村診療所,各競技会場医務室ならびに第二次,第三次病院などにおいて治療を受けた患者は総計約六千人であったという.
鈴木会長は最後に一言,「医師会(会員総数二千五百三十名)が中心となって,できたことがすばらしかった」と振り返られた.
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「京都つぼみの会」は昭和五十八年に,京都府立医大小児科が中心となって,京都の滋賀地区の小児糖尿病患者および親の勉強会兼親睦団体として発足した.平成十一年三月一日現在の会員数は,百十六名(小学生二十八名,中学生十九名,高校生四十名とOB二十九名)となっている.
この会の主な活動は,春と秋に会員親睦会としてハイキングやボウリング大会を行っているほかに,各種情報連絡も行って,父兄の知識の高揚に努力している.
毎年のサマーキャンプは,この会の最大の行事であり,これには京都府立医大,京大,滋賀医大の小児科から十六名の医師が交替で参加して,糖尿病克服や人間形成のための教育・指導などを行っている.このサマーキャンプには,看護婦,栄養士,カウンセラーのほか,多くの医療ボランティアとともに多数の父兄も積極的に参加して,総勢百名を超す大事業となっている.
この事業の実務は,京都府立医大小児科で行っており,すでに十七年間の長きにわたり諸活動を展開しており寄付や援助を受けながら,経済面における運営継続にも努力している.
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昭和二十九年十月,柳井市,大畠町,由宇町に在住する医師らによって設立され,現在,会員総数八十五名(平成十一年四月現在)の社団法人医師会である.
浜田会長に今回の受賞の大きな功績を尋ねたところ,「会員が一体となり,十六年間にわたり地域住民・学童に対し疾病調査を行い,その結果を通じて環境保全と健康について啓発を行ったことである」とのこと.
同医師会は,中国電力火力発電所建設に伴う柳井市,大畠町の地域住民の健康に及ぼす影響について,昭和五十六年四月から平成九年三月までの十六年間,会員全員がモニター医となり,学童を含む地域住民の健康調査を定期的に実施した.調査状況の総受診件数は,平成八年度で二万三千二百九十一件.同時に,柳井市および中国電力が行った大気の汚染状況調査の結果と照合し,良い自然環境と快適な健康の享受の相関関係を立証した.
また,健康調査実施中には具体的な調査資料に基づき,地域住民に対して調査報告会と合わせて健康づくり講演会を開催し,健康調査中間報告と環境保全や健康に関する啓発を行い,地域医療にも貢献した.
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昭和二十二年十一月社団法人宗像郡医師会設立.昭和五十三年宗像地域住民のための包括医療と福祉を推進するため,総合医療センター設立企画が竹中猛前会長より提案される.
昭和五十六年宗像市,四ヶ町村財産組合の委託による公設民営の会員出務による休日急患センター開設,同年四月に社団法人宗像医師会と改称.昭和六十一年宗像医師会病院開設(百五床,内科・外科),昭和六十二年リハビリ部門設置,平成二年急患センター平日夜間業務開設し,医師会病院百六四床に増床,平成三年放射線科設置,平成六年訪問看護ステーション開設,平成八年在宅介護支援センター,人工透析センター開設,平成九年老健施設「よつづか」(五十床)開設,平成十年宗像地域医療センター完成,急患センター新築移転,宗像地区医療情報システム開設,平成十一年リハビリ部門,健診センター,病後児デイケアルーム開設.
学校保健活動においては,全国に先駆けて全員の心電図・心音図自動解析機の導入や血圧測定を行っている.
昭和五十三年の総合医療センター構想提案以来,医師会員と地域住民および自治体との協力のもとに,医師会主導で医療センターを完成させ,住民の保健・医療・福祉に多大の貢献をした.
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昭和五年生まれ(六十九歳),昭和三十年千葉大学医学部卒業.
昭和五十一年から五十九年まで埼玉県医師会理事,平成六年から日本医師会医療経済・経営検討委員会委員を歴任している.
特記すべき事項として,平成元年四月より平成十年三月まで埼玉県上尾市医師会立上尾看護専門学校校長,同三年十月より埼玉県成人病検診管理指導協議会胃がん部会委員,同四年四月より八年三月までは埼玉県地域保健医療計画推進協議会委員,同六年四月より十一年五月まで埼玉県社会保険診療報酬支払基金審査委員会委員など,まことに多岐にわたる地域医療活動に従事してこられた.
一方,昭和四十一年以降,現在地において胃腸科,外科を標榜する上尾胃腸科外科医院を開設,以来三十三年の長きにわたり,その温厚かつ誠実な人柄から地域住民の厚い信望のもとに日々の診療に従事してきた.
また,氏は急患の診療や時間外診療など,労苦をいとわず患者や地域医療,保健衛生の進展に力を尽くし,その功績はきわめて多大かつ賞賛に値する.
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昭和三年生まれ(七十一歳),昭和二十四年東京医科大学専門部卒業.
平成二年から十年にかけて長野県医師会長を務めたが,この間,長野オリンピック冬季大会が開催され,医事衛生委員として苦労をした.
平成五年十月,委員に就任,オリンピックならびにパラリンピックの医事衛生については,すべて県医師会が全面的に対応するとの大英断のもとに,医療関係者を陣頭指揮し,最善の医療救護体制を整えて大会に臨み,多くの成果を上げた.大会中いちばん困ったことはとの問いに,外国人との会話だったと苦笑した.そして,当時のスポーツ関係の大西常務理事をはじめ,信州大学のスタッフたち,その他大勢の方々の努力のお陰と加えた.
オリンピック関係のみならず,県医療審議会,社会福祉審議会,がん検診,救急センター運営委員会など多くの委員会審議会に参画し,その卓越した識見と専門知識をもって積極的に活動した.
昭和二十八年以来,医療法人健静会上田病院長,理事長として,現在も活躍中である.
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大正九年生まれ(七十九歳),昭和二十年京城帝国大学医学部卒業.
軍医,静岡中央病院勤務を経て,昭和二十三年清水市にて小児科医院を開業.以来,五十年を越える長きにわたり,市民の保健衛生の向上と健康管理に多大な貢献をしている.
清水市医師会では,昭和三十七年四月から五十七年三月までの二十年間理事として職務を全うし,学校保健の充実,緊急当番医の充実,臨床検査センター・准看護学院の充実と発展に尽力した.
この間に,新医師会館の建設のために尽力,また,昭和五十五年,興津・小島地区に肝炎が発生した際には,原因の究明と患者の救済など,会員をリードし,その対応にあたった.
昭和二十四年以降,現在まで五十年間学校医として,学童の検診に従事,食糧難時代の栄養指導,体位向上に努力した.昭和四十三年に学校医部会を発足,初代会長に就任し,現在の体制の基礎を作った.
温厚のなかにも確たる信念をもち,人情味のある人柄で指導力に優れており,会員はもとより地域住民に厚い信望を受けている.
貢献した功労者 |
大正九年生まれ(七十九歳),昭和十六年大阪女子高等医学専門学校卒業.
昭和二十二年十月から現在地で産婦人科医院開業.隠岐四島で唯一の産婦人科医として戦後復興の始期から今日まで,交通不便な僻地集落へいつでも快く往診,分娩介助に応じるかたわら,地域住民の健康相談,衛生教育などを通じて保健衛生思想の普及に努め,地域医療,人命救助に献身的努力を続けてきた.
また,隠岐島ではがんの発生率が高く,「子宮がんゼロを目指して」を課題に,地域住民に強く参加を求め,今日では県下有数の集団検診の高受診率地域となった功績は大きい.
昭和三十四年四月から六十一年三月まで島後医師会副会長を務め,その後も現在まで同医師会理事として,離島における救急医療体制の確立や在宅当番医制の実現など,地域住民の僻地医療への不安解消に努めている.また,昭和四十年四月から平成五年九月までは西郷町国保運営協議会委員として積極的に運営に尽力し,昭和六十年四月からは唯一人の県医師会女性代議員として後進の指導育成に努めるなど,今後もさらなる活躍が期待されている.
地域医療に貢献した功労者 |
昭和九年生まれ(六十五歳),昭和三十四年山口県立医科大学(現山口大学医学部)卒業.
翌年四月同大学外科学第一講座に入局,さらに同大学大学院に入学,三十九年三月に博士課程修了.その後,同大学医学部第一外科勤務(文部教官助手)を経て,四十八年八月現在地にて楢外科医院を開業.
医療が大きく転換しつつある今日において,外科医院を開業し,熱意をもって地域医療に従事するかたわら,医学・生命科学・環境医学領域における知的刺激性と今日性に富んだ医科学啓発書の翻訳に携わってきた.
今までに「ウイルスの追跡者たち」「環境アレルギー」(ピーター・ラデツキー著),「生命とはなにか一 細胞の驚異の世界」(ボイス・レンズバーカー著)の三作を青土社より出版.いずれも啓発的価値の高い良書であり,医療の絶え間ない努力と熱意の発露であるばかりか,若い医学徒と同僚の医師たちを鼓舞するという点からも社会的意義は大である.現在も地域医療に従事しつつ,困難な翻訳活動に精力的に取り組んでいる.
充実に貢献した功労者 |
昭和八年生まれ(六十五歳),昭和三十五年長崎大学医学部卒業.
昭和五十年四月,長崎大学医学部第二内科助教授を辞し,堀田循環器内科医院を開設し,地域医療に従事していたが,昭和五十九年天草郡医師会理事に就任し,学術部を担当してからは,地元会員の地理的,時間的な制約を考え,かねてからの構想であった天草郡市医師会員だけによる医学会の開催ならびに学術テーマを設定して,国内でも権威ある学者を招聘しての天草学術シンポジウムの開催に力を注いだ.
昭和五十九年十月第一回天草郡市医師会医学会が,さらに昭和六十年七月,第一回天草学術シンポジウムがスタートした.以来,医学会は会員の生涯教育ならびに親睦融和の場として継続され本年第十六回を迎える.
一方,天草学術シンポジウムは,第一回「最近の化学療法」から第十回「大腸癌」まで継続して実施され,別冊集が作成された.昭和六十一年九月五日号の『日医ニュース』六〇〇号では「まさに地域医療と医師の生涯教育の実践モデルである」と紹介された.
また,医学会と連動して「天草医学会雑誌」を発刊するなど,地域の学術活動の充実への貢献は特筆すべきものである.
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大正十一年生まれ(七十七歳),昭和十九年台北帝国大学附属医学専門部卒業後,軍医として召集され
る.
昭和二十二年より恩納村仲泊診療所,普天間訓練所内診療所,那覇診療所,石川市にて診療に従事していたが,昭和三十年より昭和三十四年まで鹿児島大学医学部第二内科で専攻生として研鑽した後,那覇市にて花城医院を開設した.
昭和四十年七月より那覇市医師会理事に就任.以後,昭和四十八年より副会長,昭和五十年より昭和五十六年までは会長として任務にあたった.昭和六十三年四月よりは沖縄県医師会代議員会議長として,平成六年より四年間は日医代議員として活躍した.
また,沖縄臨床癌センターの設立発起人として昭和三十九年に診療業務開始にこぎつけ,県内唯一のコバルト照射によるがん治療を始めた.昭和四十一年からは同癌センターの副会長,昭和四十三年からは会長として施設機能の充実発展に尽した.
本土復帰に際しての救急医療,予防接種に関しては幾多の問題があったが,行政と協議を重ね,現在までつながる強固な礎となる活動を精力的に行った.