日医ニュース 第952号(平成13年5月5日)
日医は患者の権利を拒否したのか? |
世界医師会(WMA)では,数多くの宣言・声明・決議を公表しているが,なかでも話題となるのが,リスボン宣言の改訂における日医の対応である. リスボン宣言は,一九八一年にポルトガルのリスボンにおいて採択された患者の権利に関する宣言であり,「前文」と六項目の規範からなっていた.その後,一九九五年,インドネシアのバリ島で十一項目にわたり,しかも膨大な内容の修正案が提出された. 当時,WMAの副議長であった坂上正道氏(日医元副会長)は,「宣言文は,各国の事情を考慮し,原理原則的な事項を簡潔に表現すべきであり,また,修正案には,規範となるべき簡潔な事項とその解説的なものが混在しており,指針としては不徹底」と判断し,棄権をした. このときの選択が,そののち,「日医は患者の権利を拒否した」という事実誤認の記事となって,たびたびマスコミで報道され,混乱を招いた. そこで,三月三十日付の読売新聞「論点」において,坂上元副会長自らが,その真相を明らかにした. |
国境超えた「医の倫理」模索 坂上 正道 人間総合科学大学学長
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昨今の医療事故の報道を目にするたびに,医療の一端を担う者として心の痛む思いがある.
医療において本来,一番大切なものは,患者と医師との信頼関係である.ところが,患者にとって予期せぬ結果が起こった時,そこには医療への不信感しか残らない.
残念ながら,高度医療の発展に伴う医療事故の多発傾向は,ひとり日本だけのものではなく,アメリカをはじめ,世界共通の課題になっている.しかし,どんなに困難な状況にあっても大多数の医師は常に患者の利益を優先することを考え,努力していることだけは確かだ.そして,そのような環境を実現すべく世界の医師が協議する重要な場が「世界医師会」という組織である.
世界医師会(WMA=World Medical Association)は,一九四七年九月に設立され,各国医師会が加盟する国際的な医師の連合体として現在七十一カ国が加盟している.現在のWMA会長は,日本医師会長の坪井栄孝氏である.WMAの使命は,医学教育・医学・医術および医の倫理における国際水準を高め,世界のすべての人々を対象にしたヘルスケアの実現に努めながら人類に奉仕することにある.
WMAの政策文書は法的な拘束力はないものの,世界的に有名なヘルシンキ宣言(ヒトを対象とする医学研究の倫理的原則),ジュネーブ宣言(医の倫理),リスボン宣言(患者の権利)などのように,各国の医療界に大きな影響力を及ぼすものもある.その他,これまでに百を超える宣言や声明が公表されている.途上国から先進国まで七十一カ国のWMA加盟医師会の総意を集約して,しかも,各国の医療を良くするためには,宣言・声明などは普遍的なものでなければならない.
したがって,これらWMAの文書は共通の基本方針を示すべきであり,各国医師会は自国の文化・法律などの事情に沿った形で理解をするのが適当と考える.ところが,患者の権利に関するリスボン宣言のように,文書のスタイルをめぐって議論が紛糾することもある.
九五年に開かれたWMA総会で,膨大で細密な内容のリスボン宣言修正案が提出された.当時,WMAの副議長であった私は,会議の席上,「修正案の内容には賛成するが,より簡潔な文書であるべきとの考えから採択を棄権する」と述べ,その事実を議事録へ記載することを口頭で申し入れる一幕があった.
リスボン宣言の原案にはわれわれも賛成しており,修正案の精神も尊重している.日本の医師が「患者の権利」を拒否したという事実はまったくないことを,明言しておきたい.
二十一世紀に入り,IT(情報技術)革命とゲノム革命のなかでの医療技術の著しい発展は,ややもすると患者不在の医療や研究目的を重視する医療になる危険性を秘めている.WMA会長である坪井氏は就任にあたり,「限りなく発展する近代科学技術の恩恵を受けることができる幸運を喜ぶとともに,先端技術の持っている限りない欲望を制御する勇気も持ち合わせるべきであると私は確信している」と説いた.WMAは今後,こうした二十一世紀の高度医療を迎えるに当たって,患者本位の医療を守るために確固たる倫理観をいかに持ち続けるかを討議する場になるだろう.
二〇〇四年には,第五十六回のWMA総会が東京で開催されることが決まっている.そこでは,医師の使命をどう遂行していくかという最も根本的で重要な課題が,医療関係者だけでなく,国民全体に投げかけられることになると思われる.こうした意味からも,今まであまり存在を知られていなかったWMAの活動が,今後,日本国民にも広く知られていくことを望みたい.
◇ 慶応大医学部卒.北里大病院長などを経て,北里大名誉教授.昨年四月から現職.七十四歳.