日医ニュース 第970号(平成14年2月5日)

日本の医療の実情[4]
―持続可能な医療体制のために―
日医総研 研究部長 石原 謙(愛媛大学医学部医療情報部教授)

 日本の医療のセーフティネットとしてのマクロの大成功は,医療現場にいる患者さんと家族,これを支える医療人らが,それぞれミクロの犠牲となって支えている.非常識な我慢を強いられながらも医療制度の維持を実現している結果,辛うじて破綻を免れているのである.また,タックスペイヤーとして,冷静に国際比較をすると,公共投資や特殊法人・銀行等への投融資は異常に高いが,国民全体にかかわる医療や福祉についての国庫負担は最低水準であることも紹介した.今回は,この国の発展のために構造改革をするつもりなら,医療という最大の実需に投資すべきであることを述べる.

III ,今,急ぐべきは何か?

 改革なり改善は,現状を良しとせず,さらなる向上を目指すものであるが,実行の際には,現実の問題点を具体的に明らかにしたうえで,目指す方向や理想型が設定されていないと,かみ合わない机上の空論となる.目指す理想が異なれば,具体的対策も自ずと異なってくるから当然である.
 この意味において,私は,日本の目指すべき社会の理想は,「健康なときには公正な競争を.病めるときには回復までの安心を」と考えている.病に伏しているときに治療費の心配をしなければならないのでは,生存競争としてもフェアではないし,何のために元気な時に税金を納めているのかさっぱり分からない.
 ともあれ,医師が瀕死の患者を診るとき,その本質的原因が分かったところで,まずは命を救う手だてを講じるしかない.本質的な諸問題を考察したいものではあるが,まずは,この瀕死の日本に何が必要だろうか.

〈現在のわが国に緊急に必要なこと〉
 現在の日本にとって,緊急に必要な政策は,「景気対策」と「雇用対策」であることに異論はなかろう.後に述べるように,最大の成長産業である医療・福祉は,最もよい投資先である.さらに,その現場では,どこでも人手不足である.
 日経リサーチの二〇〇一年十月集計アンケートによると,九千百十病院からの千四百五十七回答の分析では,二割の病院で医師配置基準が達成されていない.医療人の現場の実感のみならず,患者としての国民の実感でも,医師や看護婦をはじめ,すべてのコメディカルスタッフが不足している.
 では,その景気対策と雇用対策で十分だろうか.無論,それだけでは足りない.年間三万人もの異常な数の自殺者がおり,中高年の働き盛りが近年の自殺倍増に拍車をかけ,その多くが失職と疾病を併せ持つことが指摘されている.病を持つ無職の人々が定職を求めても,この国では実現は困難である.
 さらに,近年明らかに,都市部を中心に野宿で夜を明かす人々も急増している.その多くも健康を害している.その病は,彼ら自身の不注意に帰すべきものと,見て見ぬ振りをしておくべきなのだろうか.もちろん,国民のだれでもが,突然にそのような状況に陥る可能性があるのである.この国の健全な維持発展を願うとき,「安心できる社会システム」は必須である.

〈国家戦略的な成長産業としての医療〉
 右肩下がりの高齢化社会であるが,医療の根幹は,医師・看護婦・コメディカルスタッフ,すなわち医療人であることは不変である.用いる技術としての分子生物学・医用生体工学・近年発達してきている医療情報学の三本柱が医療人の行為を支える.この三本柱は,小泉内閣が提唱している日本再生のための重点新領域,つまり,ゲノム・IT・材料・ナノテクノロジーという技術領域に重なる.では,その政策で安心だろうか.
 いささかくどいが,大切な事実なので以下を確認しておく.例えば,IT・情報産業への投資の仕方が重要だ.現在,すでにインターネット上を流れているコンテンツ(中味)の半分くらいは,医療・健康関連である.これを無視して,いくら通信線を物理的に整備しても,コンテンツが交信されないなら,通信線も利用されず,まったくの無意味となる.つまり,コンテンツ発生源としての医療・健康分野が,IT産業発展のためにも非常に重要なのである.
 すなわち,ITの分野を発展させようと思えば,医療におけるコンテンツの充実と医療情報の交換を,価値ある方向に誘導することが一番確実である.そこにこそ,政策的投資の意義がある.
 医療機関の参加と医師会のネットワークの接続のないインターネットサイトに流れる医療の情報は,人々が求めているものに反して,迷信や思いこみや俗説の氾濫であり,何が信用できる情報かまったく見当もつかない.実需と発展の見込める医療人によるコンテンツへの倦まず弛まずの投資を無視しては,情報産業の発展はあり得ない.
 この意味からも,医療機関が情報化への投資を検討できる程度のインセンティブを,早々に与えるべきである.発展産業育成の側面を備える経費は,その公的性格から,公費支出が最も適切である.
 アメリカはしたたかである.前述したこれからの医療を支える柱であるゲノムとITを,官民を挙げてすでに押さえ,これが軍事力と並んでの米国の今の国力の源泉である.日本は,何によってプレゼンスを確保するのか.
 さらに,アメリカは,一九九七年から医療における医用生体工学技術の重要性を認め,BECON(Bioengineering Consortium)を設置して三本目の大きな柱とし,NIHのセンターを設置した.米国は,これで二十一世紀の医療を支える技術の三本の柱を確立したわけである.
 就任早々のブッシュ大統領は,アメリカ心臓病学会総会に駆け付け,医療産業に力を入れる方針を示した.反対に,小泉首相は,構造改革で医療費を削減するという方針をとっているが,長期的な産業戦略として,どちらが賢明か明らかであろう.アメリカは,GDP比一四%という巨額の医療費を投じながら,さらに医療に投資を行っても,それにあまりあるリターンが,特許料,新薬の売り上げ,高度医療機器の輸出などで内需・輸出ともに潤うことを見抜いているのである.
 GEのジャック・ウエルチ前会長は,GEの大幅な構造改革を行ってリストラを進めたが,彼はコア・コンピテンス(中心となる重要な業務)として,医療機器と医療機器メンテナンスサービスを残し,大いに発展させている.
 これに比して日本は,産業としての医療を捨てるのだろうか.他にGDP成長を強力に牽引できるような成長産業があると,政治家諸氏は見るのか.このままの医療抑制策では,五年後,十年後には,日本で治療をすると,その医療の特許料や各種ロイヤリティは,すべてアメリカをはじめとした諸外国に持っていかれる.
 三十兆円の医療費が,十年後には四十六兆円になるという予測は,他産業なら,大いに喜ばれる予想であろう.筆者の私見では,これでもなお小さすぎる.それにしても,医療費の場合に限って,成長と呼ばず,膨れ上がるというマスコミの非難の材料になっている.これから発達させていきたい技術,つまり,IT・ゲノム・ナノテクノロジー・マテリアルも,すべて医療セクターに実需を持っているということに,早々に気付くべきである.

〈現代の米百俵〉
 小泉首相の大好きな故事である米百俵話は,本来は耐えるばかりの話ではない.未来を開拓する投資として,教育に投資した話である.当時の彼の地では,産業構造からみても,大正解であったのだろう.
 では,現在の米百俵話として,何に投資するか.教育はすでに少子化の開始とともに,入学減でつぶれる大学・高校が続出するデモグラムであり,量的投資の拡大はまったくのナンセンスであることは周知のとおり.
 今の日本では,実需を伴う発展は,医療・福祉・健康の関連領域が最適である.そして,この領域の産業発展は,もともと民生品の製造技術で鍛えられた高品質・高信頼性という得意分野である.多くの若い研究者が,欧米に留学し,良い仕事を残して帰国しており,ヒューマンリソースとしての素質も十分にすばらしい.合理的な予算措置と,発展を妨げない素直な組織を維持すれば,極めてスムーズに世界のトップに踊り出る産業となろう.実需の市場である医療現場への投資を重視しながら,IT・ゲノム・ナノテクノロジー・マテリアル等の関連産業を育成することが現在の真の米百俵である.


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