日医ニュース 第972号(平成14年3月5日)

日本の医療の実情[5]
―持続可能な医療体制のために―
日医総研 研究部長 石原 謙(愛媛大学医学部医療情報部教授)

 国際比較をしてみると,日本では公共投資が先進六カ国の総合計をしのぎ,特殊法人・銀行等への投融資も異常に高い.
 一方,国民全体の望む医療や福祉についての国庫負担は最低水準である.この予算構造を変えずして構造改革といえるだろうか.国民の安心と幸福を願い,本当にこの国の発展のために構造改革をするつもりなら,医学・医療という最大の実需に投資することが最高の方法であることは,前回までに述べた.
 国民の願いと,適切な経済政策に逆行する政府の動向を,今一度凝視したい.

三割負担にする必要はない

 小泉首相と政府は,サラリーマン本人と家族の外来入院一律の三割負担を強行しようとしている.医療保険財政が破綻しかねないという理由をもっともらしく掲げてはいるものの,これは誤りである.
 現実の問題として,個々の健保組合の破綻・解散が相次ぐが,その真の原因は,「日本の医療費が高いから破綻する」のではない.デモグラム(人口統計)をいつまでもピラミッド構造であると仮定した保険設計のミスに始まり,目的外に流用されている医療保険黒字時代の放漫経営のツケ,そして,公共投資には巨額を投じながらも老人医療費への拠出金削減など,「制度設計ミスと運用失敗と公的下支え不足のトリプルミスが個別組合を破壊している」のである.
 医療保険財政は,医療界が自らを犠牲にして合意した診療報酬の低減効果もあり,年俸に対して医療保険の料率を掛ける形で医療保険全体の連結決算をシミュレートすると逼迫した状態ではない(日医総研ワーキングペーパーNo.50「被用者保険の財務分析1999」前田由美子,No.51「国保の財務分析1999」前田由美子,No.59「被用者保険三割負担は必要か」前田由美子・森宏一郎等による).ましてや,公共投資への異常な肩入れを一部なりとも減額して,国民の望む医療への投資に振り替えると,今の保険医療体制をさらに充実できる.
 具体的には,高齢者医療費への拠出金問題で赤字になっている個別組合に緊急の政府融資を行い,政府保証を与えることである.金融危機には数十兆円を準備する政府が,医療保険の安定には数千億円にも満たない融資すらできないのでは,まさに国民の存在を忘れたとしかいいようがない.そして,この融資は前述の理由から時間をかけて医療保険本来の形に返済を行いうるので,後世の国民への負の遺産とはならない.
 この十年間,政府は公共投資ばかりを景気刺激策として,毎年四十兆円もの借金を膨らませてきた.これらの借金は,若い,そしてこれから生まれてくる世代に重くのしかかる.この十年間の政府の公共投資策四百兆円により,若年世代を四千万人とみると,一人当たり一千万円もの借金を負わされたのである.
 このように,三割負担にしなければならない理由はないが,強引に理由を付けようとすると,名目的には,すでに三割負担となっている国保との公平性とか,将来の健保財政を節約によりさらに健全にするなどの牽強付会しかないが,国保加入者における所得補足率とサラリーマンのそれの相違はよく知られていることであり,健保財政の黒字続きを目的化することは,社会保険の本来の趣旨からいって本末転倒である.

3割負担のメリットは皆無

三割負担は無駄な医療費増大を招く

 日本の医療費は,WHOのワールドヘルスレポート二〇〇〇にみるように,安いコストによって良質で公平な医療サービスを維持しており,マクロでみる医療費を節約しなければならない理由はどこにもない.
 さらに,三割負担にすると,医療費が節約できるかどうかもはなはだ疑問である.一九九七年に,被用者本人の自己負担が二割に倍増されたときにも,三,四年にわたり受診抑制が続いたが,その後再び上昇を始めた.この意味するところは,国民は自己負担が高くなるとしばらく我慢をしてはいるが,結局,受診せざるを得ないということに他ならない.無駄に診療所や病院に通っている医療ではなく,実需であるからこそ,政府の失策で抑制されても増えるのである.
 これでは,早期発見と早期治療を推進し,予防医療を振興しようとする国民や政府の真の願いと矛盾するのではなかろうか.早期発見をすれば,トータルでの医療費が低減されることが,長野県などの成功で証明される.
 一番大切な早期受診による早期発見は,三割負担強行という愚策で,手遅れ続出の病者切り捨てに変容する.しかも,手遅れの場合には必ずトータルの医療費は高額になる.これは治癒に向けてではなく,手遅れの尻ぬぐいという無駄な部分の多い医療費の増加である.こんな朝三暮四を政府自らが行うようでは,先進国とはとてもいえない.

三割負担は短期的にも医療費を節約し難い

 三割負担により,長期的に見た医療費には無駄な増加の懸念が強いが,では,せめて短期的には医療費を大いに節約できるのか.答は,「短期的にみても節約は微々たるもの」である.
 わが国の医療費の八割は,レセプト点数上位二割程度の患者さんのために使われており,一人当たり月々の医療費が二万五千円から三万円程度と考えられる.被用者本人で,すでにこれだけの医療費を要している患者さんたちは,実際に明らかな疾病と闘っているからこそ通院あるいは入院しているのであり,懐の痛い三割負担になったからといって,通院を止めるわけにはいかない.
 一方,レセプト点数で下位の八割を占める患者さんには,多くの初診外来患者が含まれ,ここで自己負担増による,ある程度の受診抑制が発生すると思われるが,経費的には,医療費節約効果は小さい.しかし,人数のうえでは八割もの患者数であり,しかも,働き盛りで国を支えるこのうちの被用者本人に受診抑制が発 生することは,早期発見早期治療の点からみると極めてゆゆしき問題である.むしろ,この世代には,積極的に受診を勧めなければならないほどに,わが国では過労状態が続いている.
 このように,医療費を節約できないわりには,引き起こす問題だけは大きい.

三割負担の最大の効果は,不安増と消費冷却のみ

 被用者三割負担強行のもたらす最大の効果は,国民の将来に対する不安である.日本人の多くが,老後の不安を感じて異常なまでに貯蓄性向が高いことは周知であるが,これがさらに「中高年から老後には,高額の医療費の自己負担が必要」と感じて,ますます財布の紐をしっかり締めることとなる.マクロ経済,ことに個人消費の占めるGDP比六割については,景気と先行きに対する心理的要因に左右される.国家経済規模に比すと,わずか数千億円の短期的節約を求めて,数十兆円規模に相当する消費冷却を,長期にわたり確実に及ぼすことを,政府は本当に欲しているのだろうか.
 政府の機能には,同時代における所得間格差のバランス是正の配慮とともに,一人の人間には不可能な長期的な世代間の共助にも,配慮することが求められる.老人医療費の増加については,現在強行しようとしている単年度内での断面における,いわばプライマリーバランスの確保自体がおかしいのであり,老人医療費こそに当該世代間の時系列な配慮が必要である.ある年の時間的断面として,「一人の高齢者を○人の現役世代が支える」というレトリックは不安をあおるのみであり,政府の社会保険政策の無策を示す恥ずべきプロパガンダである.

政府は3割負担を撤回すべき

政府の役割は,国民に対する安心の確約である

 政治に必要なのは,国民の元気がでるシナリオとそれに向かう実行力ではないのだろうか.先が見えないまま,痛みに耐えろと百回いわれてもだれもうれしくはない.病気になっても日本では絶対に安心だよという確約こそが,今の日本には必要なのである.むろん,怠惰によって働かぬものを安心させる必要はない.働くものが報われる形での,安心の確約が今こそ求められる.
 日本のサラリーマンは,可処分所得の七割程度を使って,あとは貯金する.アメリカでは九割以上を消費に回す.日本でも,老後の不安がなくなれば,消費はアメリカ型に近づくために,個人消費を押し上げるのに極めて速やかな効果がある.しかも,毎年数十兆円規模と期待され,公共投資のように効果の発現が遅くて単発的なものではない.
 この不安解消のセーフティネットたる医療への税の導入を一兆円と考えると,約五十万人程度のパート雇用を確保できることになろう.政府の五百三十万人規模の雇用を五年間で創出という政策も,医療・福祉の分野に十分な集中投入をすると,わずか数兆円で完成する.
 本当にこの国の発展のために構造改革をするつもりなら,医療という最大の実需に投資すべきである.そして,これを超える実需は,目下の日本にはない.しかも,多くの先端要素技術の市場としての成長産業であるばかりでなく,雇用状況と消費拡大をもっとも迅速に,かつ大規模に改善する.
 まさに,経済財政諮問会議の「骨太の方針」が述べるところの,「効率性の低い部門から効率性や社会的ニーズの高い成長部門へヒトと資源を移動」するとは,現在の日本の医療にヒトと資源を投入することに他ならない.


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