日医ニュース 第1000号(平成15年5月5日)

「日医ニュース」一〇〇〇号を顧みて


 終戦後,アメリカ占領軍の支配下で,多くの医療改革がなされた.戦後の貧困と結核などの伝染病の流行のなか,保健所の開設,公衆衛生の進歩には目を見張るものがあった.
 昭和のはじめに,労働者を対象にした健康保険制度が発足していたが,基本的には,医療費は自由料金であった.健康保険に次いで国民健康保険が発足し,皆保険制度が始まった.
 当時,慣行料金より低く抑えられた健康保険報酬制度において,十分な治療ができるかと心配した医師も患者も,健康保険が普及するにつれて,国民の健康に大きな役割を果たすことを知った.
 健康保険料で運営される保険制度は,制限診療の側面をもつ.保険医療が普及するにつれて,国民の権利意識の増大,医療の進歩もあって,医療費も高額となる.
 限られた財源の配分をめぐって,医療費は官僚統制のもとにあり,漸次複雑化してきた.

「日医特報」から「日医ニュース」へ

 戦後,占領軍の指導で,日本の医師会は強制加入の官製医師会から,自由加入の民間の新制医師会に代わった.それまで,大学教授,学者,政治家などが占めていた多くの医師会のトップが,開業医や勤務医に代わり,医師会員の地位向上をめざして医師会活動を始めた.
 一方で,専門家として行政に協力して,多くの業績を上げ,その結果,現代の平均余命の延長,乳幼児死亡率の低下,ひいては少死・長寿社会を実現することができた.
 昭和三十二年,日医会長に就任した武見太郎は,政府の医療費制限政策に反発して,活発な医師会活動を展開した.
 昭和三十六年一月三十一日,武見会長は日本医師会医療危機突破斗争総本部から「日医特報」を発刊し,「全会員立ち上がるべき秋は来た」と呼びかけ,七月までに二十六号の「日医特報」を刊行した.これが昭和三十六年九月二十日に創刊された「日医ニュース」に移行し,以後月二回の発行が行われ,このたび第一〇〇〇号を発行するに至った.
 創刊当時は,武見会長自らの激烈な文章が各界を驚かし,ケンカ太郎の異名を得たこともあり,以来,「日医ニュース」は,日医の公式見解として各界から注目され,今日に至っている.
 昭和三十六年は国民皆保険実現の年であり,それからの日医の活動は,官僚統制に対する反発の歴史であるとともに,健康保険制度改善のための歩みでもあった.日医は,会員のためばかりではなく,国民のために,保険適用範囲の拡大など,多くの貢献を積み重ねてきた.

多様な役割を果たしてきた日医

 約四十年間の「日医ニュース」一〇〇〇号までの主要な記事をたどってみると,日医が多種多様な行動を,会員のため,国民のために果たしてきたことを見ることができる.
 昭和三十七〜三十八年にかけては,地域差撤廃,再診料値上げが取り上げられ,支払側との交渉が難航している.
 昭和四十年から四十二年にかけては,インターン制度の廃止と登録医制度が発足した.
 昭和四十三年には,日医年金規程が決まり,会員の福利厚生の福音となった.
 昭和四十四年末から翌年初めにかけて,政府の医療政策に反発して,一斉休診実施.保険医のストライキとして世間にインパクトを与えた.
 昭和四十六年七月には,全国で保険医総辞退を実行し,八五%の辞退届けをまとめて,戦う医師会の姿勢を示した.その後,妥結十二項目を承認,辞退期間は一カ月に及んだ.
 昭和四十八年には,医療過誤多発が取り上げられ,日本医師会医師賠償責任保険が発足した.
 昭和五十年には,武見会長が世界医師会長に就任.第二十九回世界医師会を東京で開催.このころ,税金の二八%特別措置問題について,多くのやりとりがなされた.
 昭和五十四年には,診療所の法人化問題について,日医法制部が見解を発表.
 昭和五十七年,武見会長は,十三期二十五年の任期を終えて勇退,花岡堅而会長が就任した.花岡執行部は,厚生省と医療行政について「話し合いの路線」を取ることを確認した.
 昭和五十八年,「国民医療破壊阻止全国医師大会」開く.「一億人の医療体験記」を全国から募集し,多くの作品が集まった.
 昭和五十九年,羽田春ト会長就任.医療政策会議が発足した.
 昭和六十年,日医,患者負担引き上げ反対の声明書を発表.医療法改正成立.
 昭和六十一年,「老人保健法改悪(一部負担増額)反対全国医師大会」を開く.生命倫理懇談会が発足し,昭和六十三年に「脳の死」は「個体の死」とする最終報告を出した.
 平成元年,医政シンポジウムで「説明と同意」について討議された.
 平成二年,日医会館が神田駿河台から駒込へ新築移転した.
 平成三年,「日本医師・従業員国民年金基金」が創設された.
 平成四年,村瀬敏郎会長就任.「かかりつけ医」の役割が強調された.
 平成六年,点数表甲乙一本化.ネパールのコパシ村で「学校・地域保健プロジェクト」が開始された.
 平成七年,阪神・淡路大震災の救急医療に,全国の会員が参加して成果を上げた.
 平成八年,坪井栄孝会長就任.准看護婦制度の継続と充実を提言.
 平成九年,天皇・皇后両陛下ご臨席のもとで,日本医師会設立五十周年記念式典開催.
 平成十二年,坪井会長が世界医師会長に就任.「二〇一五年医療のグランドデザイン」発表.
 平成十三年,日医が禁煙キャンペーンを実施.医療構造改革構想を発表.三師会が総合規制改革会議素案の株式会社の医療参入に反対する共同声明を発表.女性会員フォーラムを開催.
 平成十四年,診療報酬本体改定で一・三%引き下げ.初のマイナス改定に苦渋の選択.
 平成十五年,坪井会長,市場万能主義的政策からの脱却を求める.四師会共同の三割負担実施凍結運動を強化.

幅広い日医の広報活動

 日医広報委員会は,日医の機関紙である「日医ニュース」に,公式記録,日医の意見,報道記事,資料版や特集記事などを掲載し,「勤務医のページ」「私もひとこと」「南から北から」「医界風土記」「医史百年」「会員の窓」「コパシ便り」「プリズム」など,いくつかのコラムを交えて,多くの情報を会員に伝えている.
 「日医ニュース」のほかに,テレビによる広報活動として,「健康増進時代」「Oh!診」「からだ元気科」の放映,各地での日医テレビ健康講座などを実施している.
 昭和五十八年に始まった「医療体験記コンクール」は,「心に残る医療」と改題して,本年二十一回を数え,医療の現場を反映した多くの優秀な作品が全国から寄せられている.
 平成十一年に始まった写真コンクール「生命を見つめるフォトコンテスト」は,生命を主題とした特殊性と,日医の主催ということで,ユニークで感動的な作品が多数応募されている.
 リアルタイムで情報が飛びかうなかにあって,日医の広報には「日医ニュース」のほかに,「日医FAXニュース」「日医ホームページ」「JPN」,テレビ会議などが用いられて,さらに,各種のメディアによる新しい広報手段が検討されている.しかし,まだまだ,「日医ニュース」のような,紙の媒体による情報伝達手段が必要とされている.
 第一〇〇〇号発行に当たって,今後とも,多くの会員のご協力をお願いする.


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