日医ニュース
日医ニュース目次 第1017号(平成16年1月20日)

新春対談
医の倫理は不易流行が原則

 昨年,文化勲章を受章された森亘日本医学会長は,日医の生命倫理懇談会座長,学術推進会議委員,年金委員会委員として深く日医の業務にかかわってこられた.そこで,今回は,森医学会長からみた「日医のあるべき姿」について語ってもらった.

坪井栄孝会長
森亘日本医学会長
 坪井会長 このたびは,文化勲章を受章され,おめでとうございます.
 森会長 ありがとうございます.
 坪井 私は,森先生が文化勲章を受けられたことで嬉しいのは,先生が日医というものをよくご存知だからです.その点では,日医は,先生が医学会会長でいられたので随分得をしていますよ.
  いや,そんなことはないですね.むしろ,私のほうがいろいろとお世話になっています.
 坪井 先生も私もよく,「日医と日本医学会は,車の両輪だ」という話をしますけれども,名実ともに車の両輪として,世の中で一生懸命人々のために奉仕することができたかなと思います.日医が,質的に軸足を持てたのは,私にとっては大変ありがたいことで,お礼を申し上げなければと思っております.
 ところで,医学の分野から文化勲章を受章される方は,そう少ないわけではないですね.
  確かに,比較的多いようですね.
 私はもともと内科医に,それも開業医になりたいと考えていたんですよ.それで,インターンを終わってあまり迷うことなく,門をたたいたのが冲中重雄先生(東大第三内科教授)のところでした.ところが冲中先生は,「君,開業医ほど難しい仕事はないんだよ」とおっしゃるんですね.先生ご自身も,もともとは開業医になりたかったのだと,後になって知りました.
 先生がいわれるには,大学にいて,スペシャリストが多勢いるなかであれば,自分の手に負えない患者さんが来ても,周りの人に話を聞けば何とでもなるので,むしろやさしいことだと.ところが,「君のように田舎へ行って開業医を一人でやりたいとなれば,それは本当に難しいことで,最高の医師にならなくてはだめだ」と,そのときおっしゃった言葉を,今でも私,よく覚えています.
 冲中先生という方は,ご承知のように,臨床の診断と病理解剖した結果とを比べて,常に反省しておられた方でした.「最高の医師になるよう医学を勉強し直し給え.そのために,いちばんいい方法は,病理に行って一生懸命に解剖することだ.その後で内科に戻って来なさい」とおっしゃって,私は病理の吉田富三先生にいわば預けられたわけです.このお二人,冲中先生も吉田先生も,後に文化勲章を授けられましたが,今回,よもや私がということは,正直申して期待しておりませんでした.
 坪井 そうですか.
  文化勲章を受けた方のなかには,恐らく,そのときどきのノーベル賞候補にもなったような,キラッと輝く仕事をした学者も少なくありませんが,私の場合は謙遜でも何でもなしに,一発としてそれ程のものはないのです.
 それから,授章の理由として医学・医療に関係して国内外で世の中のお役に立ったからと伺いましたが,研究にしてもこのような仕事にしても,何によらず同志,仲間があってこそ初めてできたわけですから,そこで私一人が代表して勲章を頂戴するのはいささかまずいな,などと考え込んだりしております.
 そのような仲間としては,当然,坪井会長をはじめとする,日医の方々の存在も大きなものであり,皆様にも感謝しております.
 坪井 いや,もうすばらしい話です.先生は,医学を修められた後は,恐らく,迷わずに病理学者という道を選ばれた人だと思っていました.ところが,私が日医執行部に入ってからしばらくたって,先生が内科医を,それも開業医を目指されていたということをお聞きし,すごいショックでしたね.
  ですから,私は愚直に,今でも,本当に立派なお医者さんは,スペシャリストじゃなくて,むしろジェネラリストだと思っています.そういった意味で,開業というのは,難しい仕事であろうと考えますし,特に,患者の立場からみれば,医学・医療の世界で十分に大切にしなくてはならない存在だという気持ちを常に抱いております.恐らく,冲中先生もお腹のなかでそう考えておられたんだと思いますね,あのときの言葉から察して.ですから,皆様にもどうか誇りをもっていただきたいのです.

医師として知る医学の「怖さ」

 坪井 昨年,慈恵医大附属青戸病院の事件に関連して,先生が読売新聞の「論点」に投稿された「患者の運命を握る『怖さ』」という文章がありますが(後掲),いわゆる基礎医学だけに没頭されてきた人は,あまりあのようなことをおっしゃらないと思うのです.むしろ,そういうことにめげないで医学の進歩のために頑張りなさいというような,励ましの言葉をかけるのが普通ではないかなと思うのですけれども,あのような言葉というのは,若い科学者にとってはいい意味でのブレーキになりますよね,ある程度.
  そうかも知れませんね.
 坪井 芥川賞を受賞した玄侑宗久さんという曹洞宗のお坊さんがいますが,彼と対談をしたときに,私は,「医師としてとにかくすべてが怖い.できたらもう医師という職業を辞めたいんだ」といったことがあります.
 なぜそう思っているかといったら,われわれは,いかにも医学を極めたような顔をして患者さんを診ているけれども,実は,人間というものの何百万分の一,あるいは何千万分の一しか知らない.いや,もっと知らないかも知れないですからね.
  そうですね.知らないというか,分かっていないというか…….
 坪井 その話をしたら,彼は,「宗教家として,それは分からないことはない.けれども,もっと科学を突き詰めていくと,宗教家が考えている何かの現象みたいなものを科学的に解明できるような世の中になる」と,私と逆なことをいうんですよ.
 非常におもしろい相対現象だなと思ったんですが,怖さを知るというのは,やはり先生がおっしゃるように,経験を積まないとだめなんですかね,教育だけでは.
  経験とか教育とか以前の問題かも知れませんね.
 自然科学者以外の方は反って自然科学万能だと考えてくださるので,身の縮む思いをすることがあります.教科書には,分かったことだけが書いてありますから,いかにも全部分かったように印象づけられますけれども,実際にはまだまだ分かっていない.むしろ,自然科学をやっている人間のほうが,少なくとも現時点での自然科学の,限界みたいなものを感じているかも知れませんね.
 例えば,エビデンス・ベイスド・メディシンという言葉がありますね.エビデンスというのは何だと.確かに,その限りにおいては正しいことだと思いますけれども,それでは,今,分かっているエビデンスが物事のすべてかというと,疑問を感じる時もあります.
 坪井 そうでしょうね.
  今,分かっている範囲での自然科学的エビデンス以外にも,まやかしでない効果というものがあるかも知れません.そういうものも一概には否定できないですね.
 坪井 まさにそのとおりですね.エビデンスを持った医療というのは,アメリカから来ている思想ですよね.あの人たちはそういうことをいわないと,仕事の理念とか哲学というものがもたないのではないかと思うのでしょうね.
 ところが,われわれ日本人は,エビデンスといわれると,必ずそのエビデンス・プラス・アルファに思いが浮かぶのではないでしょうか.今,先生がいわれたのは,まったくそのとおりですね.
  ですから,例えば,千年やってきてとにかく効くというのは,自然科学的な意味でのエビデンスではなくても,これも一つのエビデンスではないかという気がします.こんなことをいうと,今,はやりませんけれども.
 坪井 先生,そのようなことを時々おっしゃいますね.はやらせなければいけないかも知れません.
 世界医師会の会議に出席していますと,財政とか功利的な考え方中心で,産学合同で仕事ができるならば,ヘルシンキ宣言というような世界的な倫理ガイドラインを変更してもいいのではないかというグループの数が多くなってきているわけです.
 ところが,われわれが世界医師会で,「心」とか「癒し」とか発言しますと,日本医師会のいうことはミラクルだというんですよ.恐らく,軽蔑していっているのでしょうが,彼らにはその機微が分からないですからね.われわれは,科学的な医学プラス・ミラクルの部分を理解していますし,すばらしいことですからいいのですが,でも,医学とか医療というのは,そこの部分こそ大切なのではないでしょうか.
 それを日本医学会の会長として先生が表に出されているというのは,私はすばらしいことだと思います.
  いやいや,独断と偏見です.
 坪井 海で例えると,船はブイに従って港に入るわけです.ですから,日医にとって日本医学会長というのはブイみたいなものです.
  いや,それはお互いさまでしょう.
 坪井 われわれは,船のようなもので,医学的な仕事をしたり,時にはどろどろした仕事もやります.そんなときに時々立ち止まったり,先生のブイにぶつかってハッとしたりしながら,目的地に入港できると,私はそう思ってます.
 日本医学会と日医は,現在,運命共同体のような格好で仕事ができていると,勝手に考えているのですが,少し,私の方が頼り過ぎですかね.
  それもお互いさまだと思います.ある程度緊張感を伴った信頼関係のような間柄がいちばん理想的なのではないでしょうか.もうまったく無批判にべったりというのも,これまた危険なところがありますね.

理念実現のため政治活動は不可欠

森医学会長
 坪井 医師会をご覧になられていて,忌憚なく,ご感想をお聞かせください.
  実は,昨今,話題になっている日本学術会議のあり方についても,同じようなことを申し上げたのですが…….学者のなかには,政治というものを,ちょっとばかにしている,嫌っている方もおられるような印象を抱いておりますが,正しい政治というのは,学問の世界にとっても恥ずかしいことではないし,不必要なことでもない.むしろ大事なことで,すばらしい人が政治をしないことの方が問題なんだから,日医は堂々と,医療の世界での政治をお考えになればいい.
 坪井 先生がそのようなお考えとは意外でしたね.
  社会のなかの政治というのを考えたとき,それは別に毛嫌いすべきものではないし,むしろ絶対必要なものだとさえ考えています.
 坪井 そうですね.
  学問と政治とは,本来それぞれ異質のものですから,単純には比べることができませんが,強いていえば,私は,政治の方が学問より高級な場合もあると思っています.ですから,医師会の方々も,別に恥ずかしいとか,悪口をいわれるとかお考えにならずに,正面切って,「われわれは医学・医療の世界のなかの政治家である」と主張されてはいかがですか.
 政治活動というのは,学問と違って,そこに若干の不純さがあり,おそらく魚も住まないようなきれいな流れというわけにはいかないでしょうけれども,人間がやる政治というのはそういうものなのです.ですから極端ないい方をすれば,学術団体という看板に固執されることなく,もう胸を張って,日医というのは政治的団体であるとおっしゃってもいいような気がするのですけれども,暴論でしょうか.
 坪井 暴論ですね.
 しかし,今,先生が堂々と政治活動をしていいとおっしゃいましたように,われわれが,国民のために,あるいは人類のためにこういうことを実際に社会に適用させていくという理念をしっかり根底に持っているなら,今の日本の機構のなかでは,政治活動をしないとできないと思います.われわれの考えていることを理解する政治家を育てる,あるいは,政治家を納得させるというように,下から上に向かって政治に対してアピールしていくことこそが,日医の政治活動の根本なのです.
 われわれの暮らしをよくしようとか,診療報酬を高くしようというために政治活動をするのであれば,これはやる価値はないと思います.そうではなくて,われわれが考えている医療政策を実現するための手段として,政治家と話し合い,理解をしてもらうわけです.その日医に,堂々と政治活動をしていいのではないかという先生のご進言は,私にとってみると,力強い応援です.学術会議等に関係されている先生が,医政に対する考え方をそこまではっきりといわれたのは初めてですね.
  いや,恐れ入ります.これもかなりの独断と偏見ですから,大きな誤ちを犯しているかも知れないのですが,実際に他所でも申していることなのです.日本の場合には,政治というと,すぐに,汚いこと,だめなこと,そういう先入観が少し強過ぎるのではないでしょうか.もし,自ら政治的団体を名乗るのが恥ずかしいとお思いでしたら,それはその方々の身近にあるその種の団体が現在やっていることが恥ずかしいからであって,本来は尊敬されてしかるべきものでしょう.
 坪井 学問に政治を並列して,しかも堂々とやりなさいというお話をされたのは歴代医学会長のなかで,恐らく,先生が初めてじゃないですか.
  いや,そんなことはないと思いますよ.ただ,日本医学会は,たとえ組織のうえでは医師会のなかに留まろうとも,自ら政治的団体にはなり得ません.これこそ,政治とははっきり一線を画した学術団体です.
 坪井 むしろ,むこう側に医学会や学術会議があって,こちら側に武見さんみたいな人たちがいてというのが,今までの医学界の構図です.ですから,私は,今の日本医学会と日医との関係に,ますます気を強くしましたね.

人は欲望のために盲目になる

坪井会長
 坪井 現在,先生に日医の生命倫理懇談会や学術推進会議に出席していただいておりますね.
  どうもあんまりお役に立っておりませんので,恐縮です.
 坪井 とんでもないです.生倫懇の席上,ある委員が,若い人たちにエシックスをもってその暴走を防ぐということが,われわれの仕事だというお話をされた.私もそのとおりだと思うのですが,若いときにオリジナリティーのある仕事をすると,周りからエシックスとか倫理とか道徳とかいわれても,自分の仕事の成功ということがやはり優先するのですね.その欲望のために盲目になります.
  われわれの若い時代には,研究結果にまで倫理上の責任があるなどとはいわれもしなかったですね.成果をどのように利用するかは,また次の,別の問題でした.
 坪井 若い時代には,研究するのは,人類愛とか,エシックスとか,そういうことが頭にあってしているのではなく,人より上へ行きたい,早く認められたい,それだけの欲望でやっているというのが現実です.ですから,若い医師に自覚させるなら,そこのところに何かないとできないと思いますということを,私はその委員にいったことがあり,後悔しているのです.
  後悔なさる必要はないと思いますよ.
 坪井 私も,ちょうど四十を越したぐらいのときには,ほんとに怖いものはなかったですものね.何でもすべて分かって,ぶ厚い医学事典を全部マスターしたみたいな気分になっているから,先輩はどうしてこれが分からないのか,教授はどうしてこの手術をやらないのかと,今思えば,相当生意気なことを考えていました.あのようなときに事故を起こすのではないかと思いますね.
  そうかも知れませんね.
 坪井 ですから,それをこれからどうやって防止するのかというのは,まさに先生を頼りにしながら進めていかなければならないと考えています.

50年後も医療事故は減らない!?

  その点私は,どちらかといえば悲観的でして,五十年後になっても,恐らく,患者さんの不安とか,あるいは医療事故は減らないのではないかと思うことさえあるのです.
 それは,医療事故のかなりの部分は複雑な器械のせいでもないし,規則がないからでもない,人間というものの「至らなさ」といいますか,そのせいなのであって,五十年後といえども人間の本質というものはあまり変わっていないだろうから,今と同じであろうといった考えがフッと頭をよぎることがあるのです.
 ただ,だからといって,現在,もっとしっかりせよといい,事故を減らそうと努力していることが無駄なことであるかといえば,決してそうではありません.みんなが安全を意識し,注意し,いろいろ改善しているからこそ,この程度の事故数に止まっているのです.
 どうせ五十年後も減らないんだからといって,みんなが一斉に,「もう,どうでもいいんだ」と安全とか安心の努力を放棄したなら,恐らく,今の何倍もの事故が起こると思いますね.ですから,今やっている努力は無駄ではないどころか,絶対に必要なことなのだけれども,それでは,将来,間違いをゼロにすることができるかと問われれば,私は,できないのではないかという気がします.
 坪井 これもまた,いいお話ですね.
  基本的には,人間の行ったことは善悪にかかわらず,すべて人間に返ってくるみたいな気がしますね.
 坪井 若い人たちは,早く脚光が浴びたい,自分のいったことは絶対にいいに決まっていると思っている時期は,いうなれば,研究病にかかっているようなものです.そのときにしっかりと軌道修正してくれるとか,あるいはそうではないよと諭してくれるとか,家庭教育も含めての教育をしてくれるとか,そういうことまでしてでも防止しないと,医の倫理規程などを持たせたって,読みもしませんよ.
  先生は,今,そういうのは病気だとおっしゃったけれども,恐らく,それが人間の本性なのでしょうね.そういう本性なんだけれども,努力して,他の人間や患者さんのこともよく考えなさいよ,それが「人間的」ということなんですというようなことを,やはり他人からいってあげることが,多少とも良い意味でのブレーキになるのではないでしょうか.
 坪井 それは非常に必要なことですね.それをやりながら,次の世代に譲っていくしかないのでしょうね.
  かといって,大学の講義室で,そもそも「倫理とは」なんて話しても,私はあまり効果は期待できないと思いますね.

倫理の一時流行は混乱の元

 坪井 日医の生命倫理懇談会の座長を先生がずっとおやりになられていて,方向づけとしてはいかがですか.
  そんな大それた,基本的な考えなどございませんが,まさしく変わらないものが中心にあって,それでその末梢の部分に,そのときどきの情勢によって変わるものがある.けれども,それらは基本的には同じ精神に基づくものでなくてはならない.といえば,これはまさしく世にいう不易流行ですね.
 ただ,不易流行の対語として,一時流行という言葉がありますが,その変わらざるものをまったく踏まえないで,ただファッションのように,スカートを長くするとか短くするとかというような流行のほうが,医の世界でも今,ちょっとはやり過ぎているのかも知れませんね.
 倫理であろうが,法律であろうが,基本的に人間らしく変わってはならないものを踏まえていれば,細かい点はそのときそのときに変わったっていいでしょう.しかし,一時の思いつきのような倫理や,時の社会にこびるような法律が幅を利かせ始めると,それは混乱の元になります.
 坪井 人間としての基本的なもの,これはもう変えてはいけないということですね.だから,医学教育を受けて医師になったというときには,そこのところを最低限持っている必要があるということなのでしょうね.
  おっしゃるとおりです.そこのところが欠けているものだから,理屈をいったり,説明したりしなければ,相手を納得させることができないんですね.
 坪井 そうですね.こんなことをいうと学者に怒られるかも知れませんけれども,だから,その逃げ口上に,エビデンスを使うのですよ.エビデンスというと,どこか水戸黄門の印籠みたいなことを想像しますね.
  物事はすべて説明できなくてはいけないとか,説明し得るものであるという考えは,やはり危険ですね.公理のように説明できないもの,常識のようなことは,もうディスカッションしないで認めていこうという姿勢にならないと,これからは大変ですよ.何で人間は人を殺して悪いのかというようなことを議論しはじめると,議論のための議論みたいになってしまい,そこが解決しなければ先には進まないと頑張れば,もう何もできないことになりますね.
 坪井 そのとおりですね.
  あまり新春らしくない話になってしまい,申しわけございません.
 坪井 新春としては少し重い話題だったかも知れません.でも,事の初めは新春にあるわけですから,いいのではないでしょうか.本当にありがとうございました.

読売新聞 平成15年10月22日朝刊

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