日医ニュース
日医ニュース目次 第1086号(平成18年12月5日)

NO.37
オピニオン

医療安全のためのコストとその意味
安川文朗(同志社大学医療政策・経営研究センター長)

安川文朗(やすかわふみあき)
 同志社大学医療政策・経営研究センター長.昭和55年関西学院大学社会学部卒,平成5年京大大学院経済学研究科修了,経済学博士.民間病院勤務の後,平成16年より同志社大学研究開発推進機構専任フェロー,平成18年より現職.主な著書に「医療を経済する」(共著:医学書院2006),「医療安全の経済分析」(勁草書房2004),「医療経済学」(共著:東京大学出版会1998)などがある.
 「医療安全に対する意識は高まりつつあるが,そのコストについては,これまであまり議論されてこなかった」と主張する安川文朗氏に,そのコストの意味するものについて,言及してもらった.
(なお,感想などは広報課までお寄せください)

 医療の安全を創り出すためには,医療者の能力・資質の向上,医療行為の正しい選択,リスクを減らす医療システムの構築,患者さんへの適切な情報の開示が必要である.しかし,それを実行するための医療安全コストの議論は,あまりされてこなかった.
 基本的な問題を考えてみよう.現状の医療安全水準をさらに引き上げるために,病院はどれだけコストをかけるべきだろうか? この問いに答えるためには,(1)安全水準をどこまで(どれくらい)引き上げるべきか(2)そのために投下される費用の規模に対して,どれくらいの成果が期待されるか(3)この費用投下によって,どんな派生効果が得られるか―がある程度分かっていなければならない.
 言い方を変えると,病院にどの程度の安全対策を実行する意思があり,またその効果をどこまで許容範囲とするかが明確な時に初めて,かけられるべきコストが決まるのである.
 例えば,病院が単に診療報酬上の「医療安全対策加算」を獲得するために,要求される専従の医療安全管理者(リスクマネジャー)を一名設置することで良しと考えるか,それとも医療安全水準を実質的に向上させる人的配置を含む,よりレベルの高い安全管理システムを構築しようと考えるかによって,医療安全対策のコストは違ってくるであろうし,また,医療安全対策の成果として,これまで発生していた些細なミスも徹底的に排除されるような劇的な改善を期待するか,ヒヤリ・ハット事例が二〇%減少すればOK,といったレベルでの成果を期待するかも,かけるべきコストに影響を及ぼす.

希薄だった医療安全コストへの意識

 そうは言っても,既述のような医療安全水準や効果を客観的に予測することは難しく,また,もともと医療行為はある程度のリスクを必然的に内包しているため,理論的にはともかく,実際には医療安全の費用対効果を計測することは容易ではない.しかし,医療以外の領域をみると,近年,地球環境との共生を謳った「環境会計」の考え方が企業に普及し始め,積極的に自社の環境対策や安全対策の取り組みにかかるコストを公開したり,費用対効果を試算したりする企業が増えている.
 ある調査では,企業における安全対策の費用対効果は一:二・七と試算されている.つまり,一単位の安全対策のためのコスト投入に対して,その(経済的)効果は二・七倍あるというわけである.さらに,投じられた直接安全対策費は三倍の災害防止・災害回避効果をもたらし,また,生産性向上などの副次的効果ももたらしているという報告もある.言うまでもなく,企業の試算にも,そもそもどこまでが安全対策や環境対策の費用であり,また効果と言えるのか,効果をどのような基準で金銭換算するのかといった基本的な問題がある.しかし,費用対効果を数値的に明らかにする最大の意義は,社会に対する企業の(環境や安全に対する)アカウンタビリティを,目に見える形で果たすところにある.
 一方で,医療(医療機関)における安全対策は,議論の社会的影響に比べて,対策の具体的な情報があまり国民に伝達されていない.専従医療安全管理者を配置するといったことも,「診療報酬」という,言わば「内輪」の出来事であって,医療全体の社会的責任として国民に宣言されているわけではない.医療安全対策が,社会に表明されない病院の「内輪」の取り組みにとどまることにより,それに従事する医療者の資質水準についても,病院が最低限装備すべき安全管理システムについても,また,医療行為の選択についても,社会的に許容可能な水準や標準化の必要性は強く意識されにくい.批判を恐れずに言えば,こうした「必要意識」の希薄さが,ただでさえ技術的な困難さを伴う医療安全対策の費用対効果議論を遅らせている一つの要因ではないだろうか.

迫られる国民の選択

 では,もし医療安全の適正な水準や投下すべきコストのボリュームが分かったとして,その時の医療安全コストとは,病院にとって一体どのような意味をもつのだろうか?
 適切な医療安全対策が実施されれば,病院における医療事故のリスクは低減し,損害賠償や復旧医療のための追加費用は削減されるだろう.また,そのような安全対策の取り組みが患者さんに評価されれば,病院の評判形成にプラスの効果を及ぼすことは,容易に想像できる.このような金銭的および非金銭的便益は,ある一時点での医療安全対策の経済評価(例えば,ある医療事故が回避された時に積算され得る経済的便益)とも言えるが,実際には病院の評判も信頼も,その反対に不信も単に一時点なものではなく,一定期間継続するから,その意味で医療安全の金銭的および非金銭的な成果は病院の資産であり,また,医療安全対策が不備であるために生じるリスクや損失は,病院の負債であるといえる.そして,医療安全のコストとは,病院の土地や建物と同様,そこから継続的な便益を生じさせる資本(キャピタル)の保有コストに他ならないのである.
 医療安全に対して投下されたコストは,企業における設備投資と異なり,それ自体が新たな収益を生むわけではない.しかし,病院が常に病院としての期待されるパフォーマンス水準を減耗させないという点で,医療安全コストはリターンを提供していると言える.医療安全コストをこのような資本と捉える時,「病院はどれだけコストをかけるべきか」という問いは,「求められる優れた病院の安全性を実現するために,どれだけの資本が必要か」という問いに変換される.
 そして,もし病院の企業努力をもってしても,その資本を十分に確保できないことが明らかなら,社会はその資本を減耗させるか,あるいは何らかの調達策を考案するかを選択しなければならない.日本は今,正にその選択を迫られていると思う.そして,その選択の前提として,病院は自ら,あり得べき資産の水準をきちんと国民に提示しなければならない.

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