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第1157号(平成21年11月20日) |
第62回日本医師会設立記念医学大会
受賞者の横顔

第62回日本医師会設立記念医学大会の席上表彰された日本医師会最高優功賞のうち,都道府県医師会長推薦による「医学,医術の研究により医学,医療の発展又は社会福祉の向上に貢献し,特に功績顕著なる功労者」の横顔を紹介する.
生涯教育活動の推進に貢献した団体
北海道 旭川市医師会医学会(増田 一雄会長)
第一回旭川市医師会医学会は,新制旭川市医師会創立十周年記念行事として,昭和三十二年十一月に開催された.現在まで五十二回を数え,当初は一般演題と学術映画のみであったが,その後,シンポジウム,特別講演も加わり,会員にとって学術活動の中心的役割を果たしている.
本医学会は,開業医,勤務医を問わず,自由に演題を出すことが出来,演題の数では勤務医の方が多いが,開業医からの活発な質問も多く,開業医と勤務医の学術的な交流の場となっている.
また,医学会当日の発表内容を『旭医だより』(昭和四十五年から毎年三回発行)に掲載し,会員の日常診療に非常に役立っている.
平成十四年度より同医師会では,会員の発表する論文・学会の報告等のなかから,地域医療に貢献度の高い論文等について,旭川市医師会賞を贈呈しているが,その受賞式と記念講演を本医学会で挙行するなど,豊富な内容となっている.
本医学会では,今後も会員の生涯学習および生涯研究の推進のための役割を果たしていくとしている.
在宅医療支援体制の整備・充実に貢献した医師会
京都府 伏見医師会(依田 純三会長)
伏見医師会の訪問看護ステーションは,平成七年に開設された.開設当初から行政の受け皿としての訪看STでなく,会員が等しく利用出来る,医療機関併設型でない独立型としてスタートし,経営的リスクを負いながらも時代が要請する在宅医療に会員医師が参入しやすい状況をつくった.医師会が指導する在宅医療は質の低下を防止し,地域における訪問看護のあるべき姿を示してきた.
また,会員経営の訪看STとの競合を避けるため,いたずらに経営規模の拡大も行わず,その結果,在宅医療に参入する診療所数が増え,在宅専門医も誕生させた.
今日では,地域における訪看STが増え,当医師会立の訪看ST利用者数・利用医療機関数は減少したが,その他の訪看STが敬遠する困難事例を引き受け,三百六十五日二十四時間対応をし,地域における指導的存在感を示している.
「住み慣れた自宅で最期を迎えたい」という患者の希望をかなえることは容易なことではないが,当訪看STは医師と連携し,患者・家族が満足のいく看取りを実現している.
小児救急医療体制の確立に貢献した医師会
福岡県 筑紫医師会(原 文彦会長)
明治四十年筑紫郡医師会設立(昭和二十二年に社団法人化し筑紫医師会となる).昭和四十八年筑紫地区救急医療協議会が設置され,救急医療体制を発足.
平成十四年三月福岡県医師会小児救急委員会から小児初期救急体制が未整備であるとの答申があり,筑紫医師会は会長の指示で体制づくりが始まった.
筑紫地区には,小児科の入院施設は二十四時間救急体制をとっていない福岡大学筑紫病院と,救急の取り組みはしているが非会員の福岡徳洲会病院の二病院があった.粘り強い説明と努力で,平成十四年十月から,まず,福岡大学筑紫病院の救急体制が始まり,平成十五年に福岡徳洲会病院が医師会に入会したことにより,平成十六年には,この二病院に当医師会員である開業小児科医が平日夜間・休日出務し,病院小児科医および研修医と協力して行う,筑紫地区独自の小児救急体制が構築された.
平成十五年には二千七百三名の患者数であったが,二十年の両病院における小児救急医療受診者数は一万九千九百二十九名に上っている.
医療政策の提言を通じて国民医療の推進に貢献した功労者
茨城県 佐藤 怜先生
昭和八年十月一日生まれ(七十六歳),昭和三十五年信州大学医学部卒業.昭和四十五年佐藤医院開業.昭和四十八年西茨城医師会常任理事.平成四年茨城県医師会理事,平成六年同常任理事,平成十年同会長.平成八年日医代議員.
国民の立場に立った医療制度改革の必要性を訴え,いち早く医療政策を理論的に構築することを提言し,近隣医師会の医師たちと議論を重ね,医療政策の基本的理論の構築に努めた.また,県医に初めて医療政策研究会を設けたほか,地域に密着した活動を求め,一般市民を対象として,「医療県民フォーラム」を開催するなど,国民へ医療のあり方の知識を広め,啓発活動に尽力した.
平成十一年の東海村における原子力臨界事故に際しては,県医師会医療災害対策本部を設置.医療救護所開設に協力し,会員への情報提供等を行ったほか,その後の県や各界の原子力事故の対策会議に参加.対策マニュアルの作成や,原子力の情報公開に積極的に貢献した.
救急医療体制の確立に貢献した功労者
神奈川県 宮川 政久先生
昭和十二年八月十八日生まれ(七十二歳),昭和三十九年順天堂大学医学部卒業.昭和五十五年医療法人誠医会宮川病院長.昭和五十八年川崎市医師会理事,平成七年同副会長,平成十三年同会長,平成二十一年から同顧問.
早くから小児救急医療問題に着手し,平成十四年の小児急病センター開設に当たっては,行政・医師会員・市内外大学病院勤務医に協力を要請し,小児科専門医による診療窓口を毎夜間開設するなど,川崎市における救急医療体制を構築.
さらに,市民が三百六十五日二十四時間リアルタイムに医療機関情報を入手出来るシステム「かわさきのお医者さん」を,平成十五年運用開始.災害対策として,被災時における医療機能の確保,効率的な医療支援体制の整備に努めるなど,指導的立場として果たした功績は多大である.
一方,二十九年の長きにわたり,内科校医として児童・生徒の健康管理に努め,現在も川崎市学校保健会長として率先献身かつ精力的に学校保健の資質向上に尽力している.
地域医療体制の整備・充実に貢献した功労者
岐阜県 古橋 貞二郎先生
昭和六年五月二十四日生まれ(七十八歳),昭和三十一年岐阜医科大学卒業.昭和四十二年古橋内科開業.昭和五十一年恵那医師会理事,昭和六十一年同副会長,平成八年同会長.平成三年岐阜県医師会代議員,平成十二年同代議員会副議長,平成十四年同副会長,平成十八年同代議員会議長.平成十年日医代議員.
岐阜県国民健康保険診療報酬審査会委員に連続十二年間就任.各種委員会・協議会の委員を歴任し,岐阜県の医療行政の充実・発展に寄与.昭和六十一年の岐阜県医師会の法医等三師会・警察連絡協議会設立に先駆け,恵那支部を結成し講演会を独自に開催した.
また,病院群輪番制施行に伴い,地元の四つの病院を組織化し,広域災害・救急医療情報システムと連携を図ったほか,平成二年には,恵那地域産業保健活動推進協議会を立ち上げ,地域産業保健センター事業に取り組み,労働者の健康指導,相談体制確立に尽力した.
一方,介護保険制度施行後は,自ら介護保険シンポジウム実行委員会を組織化.会長として毎年シンポジウムを開催し,大きな反響を呼ぶなど,地域社会に貢献している.
小児救急医療体制の確立に貢献した功労者
兵庫県 佐々木 皓一先生
昭和四年四月十四日生まれ(八十歳),昭和三十一年大阪医科大学卒業.昭和四十一年佐々木小児科医院開設.昭和五十七年伊丹市医師会理事,平成六年同副会長,平成八年同会長,平成二十年同監事.平成二年兵庫県医師会代議員,平成十六年同代議員会副議長,平成十八年同代議員会議長.平成十四年日医代議員.
市内の人口増により,医師会と市が一体となって昭和五十年に伊丹市立休日応急診療所を開設するに当たり,小児科医として公衆衛生担当理事と協力したほか,昭和五十八年には,土曜日夜間の小児科診療を発足させ,以来今日まで管理・運営に貢献している.
平成になり,自治体の枠を越えた小児救急を模索しながら伊丹,川西,宝塚三市医師会の代表として兵庫県,各市との調整をし,広域小児救急センター事業の設立に向けての体制の整備と確保を推進.平成二十年には「阪神北広域こども急病センター」のスタートにこぎつけ,二次後送病院の確保,三市立病院との連携,輪番制をとっている民間病院への参画や阪神南圏域とも連携し,二次救急医療体制の充実強化に努力した.小児初期救急医療の円滑なる運営は安心して子どもを育てられる地域社会作りの核であり,その構築に努力した貢献は多大である.
地域の保健・医療・福祉の向上に貢献した功労者
岡山県 永山 克巳先生
昭和四年一月七日生まれ(八十歳),昭和二十八年大阪大学医学部卒業.昭和三十三年永山医院開設.昭和四十年倉敷医師会理事,昭和四十七年同副会長.昭和五十一年岡山県医師会理事,昭和六十三年同副会長,平成六年同会長,平成十二年同顧問.平成二年日医代議員.
県医師会役員として,会員の医学医術の研鑚,医の倫理の実践を推進し,医業経営の安定と向上等に努めるとともに,県衛生行政と協力的な実践活動を推進し,県民の健康と福祉の増進に貢献したその功績は,特筆に値する.
また,各種審議会委員,各種団体役員として,医療行政の円滑化,医学医療の進歩充実,保健衛生の発展と適正化に尽力し,特に,看護職員の確保対策等,県民のための保健衛生の向上に力を注いだ.
内科,小児科標榜医として,住民からの信望も厚く,地元公立学校の校医を昭和三十三年から五十年間勤めるなど,地域住民の健康保持,疾病の予防と治療,および公衆衛生の普及を図った功績は大きい.
地域医療体制の整備・充実に貢献した功労者
広島県 岸 明宏先生
昭和十一年一月二十一日生まれ(七十三歳),昭和三十七年広島大学医学部卒業.昭和四十二年加計町国民健康保険病院長.平成十一年山県郡医師会長.
中四国地方で初めての厚生大臣指定の開放型病棟を開設.地域医師会と緊密な連携と信頼関係を構築し,一貫した医療体制を可能にした.
また,在宅での訪問診療,訪問看護の実施など,病診連携の推進に尽力したほか,一貫した健康管理体制等,地域に密着した包括医療体制の実現を果たした.
平成三年には,認知症老人専門病床,重度認知症疾患患者収容治療病床の整備をし,地域住民のニーズに対応した高齢化社会における医療体制の充実整備や,へき地医療の充実に寄与した功績は大きい.
そのほか,広島大学医学部眼科教室等と緊密な連携を図り,献眼献腎運動を推進し,高い実績を上げている.
地域住民への糖尿病対策に貢献した功労者
徳島県 島 健二先生
昭和九年二月二日生まれ(七十五歳),昭和三十四年大阪大学医学部卒業.昭和五十九年徳島大学医学部臨床検査医学教授.平成十一年川島病院名誉院長.
長期にわたる徳島県の糖尿病死亡率全国第一位という状態を脱却するため,平成十六年に県医師会で「糖尿病対策班」を組織し,その班長として貢献.一般県民に“気付き”となるインパクトの強いタイトルの講演会や,徳島県民の一日歩数が全国平均より少ないことが肥満や糖尿病多発の一因ではないかと考え,『歩数ダイアリー』を考案し,県民運動として県民の歩行習慣の普及に努めるなど,様々な媒体の協力を得て問題の周知に尽力した.
また,糖尿病治療に当たる医療機関の機能充実のため,徳島県独自の『糖尿病登録医』制度も考案・実施するとともに,県下各地の糖尿病指導医を講師に,正しい初期治療の一貫指導を行った結果,平成十九年度には目的を達した.
この対策を緻密に検討,実施するに当たり,糖尿病専門医としての卓越した知織で糖尿病医療連携システムを整備し,職種横断の糖尿病治療のサポート体制を構築するなど,地域医療に多大な貢献をした.
有床診療所の活用の推進に貢献した功労者
鹿児島県 海江田 健先生
昭和十二年三月十五日生まれ(七十二歳),昭和四十二年鹿児島大学大学院医学研究科卒業.昭和四十七年海江田外科開設.昭和五十九年鹿児島市医師会理事,平成十年同医師会長.同年鹿児島県医師会代議員会議長,平成十六年同医師会監事.
医師会活動では十八年にわたり役員として地域医療の充実・発展に尽力するとともに,看護専門学校,臨床検査センター,夜間急病センター,医師会病院などの運営・発展に積極的に取り組んだ.
一方,有床診療所の適正な評価を願い,平成六年には鹿児島市医師会有床診療所協議会を,さらには,郡市,県,日医にも通ずる活動が必要との理念のもと,平成十四年には,鹿児島県有床診療所協議会を発足させると同時に会長に就任し,協議会の事業推進および発展向上に多大な貢献を果たした.また,日医有床診療所に関する検討委員会委員として,入院についての四十八時間規制撤廃に向け,積極的に取り組んだ.
がん検診活動に貢献した功労者
沖縄県 幸地 昭二先生
昭和二年七月十四日生まれ(八十二歳),昭和三十年東京慈恵会医科大学卒業.昭和四十年沖縄医師会理事.昭和四十六年那覇地区医師会副会長.昭和五十一年沖縄県医師会副会長.
沖縄県のがん死亡率の上昇に対して,昭和三十七年内視鏡同好会の設立を提唱し,米軍施政下の困難な状況のなか,本土講師を招聘して早期がん発見のための月例研究会や講演会を実施するなど,会員の診断技術の向上に寄与するとともに,昭和四十年,各医療機関における胃集団検診を組織的に行い,県民に対する対がん思想の啓発普及に努めた.
昭和四十二年には,沖縄対がん協会設立に尽力するとともに,自ら常任理事に就任し,がん検診の充実発展と,同協会の事業運営に築いた功績は大きい.
さらに,昭和四十四年,沖縄内視鏡学会長として,国立がんセンターおよび癌研究会研究所と協力して,県内の「悪性新生物実態(疫学)調査」を初めて実施し,多くの知見を得た.
昭和四十八年,救急医療対策として公設民営の「那覇地区医師会夜間急病センター」の設立と,その運営への貢献は多大である.
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