日医ニュース
日医ニュース目次 第1161号(平成22年1月20日)

新春対談 唐澤人会長・羽田澄子氏
医師は,死に対する“心”を涵養しつつ地域の実情に合った医療・介護システムの構築を

 新春に当たり,今回は,記録映画監督として,『痴呆性老人の世界』などの作品を通して,高齢者医療や終末期医療などに関しても,さまざまな問題提起をしてこられた羽田澄子氏を迎え,世界に類を見ない少子高齢社会を迎えた日本の医療・介護・福祉が抱える問題点と進むべき方向性等について語っていただいた.

新春対談 唐澤祥人会長・羽田澄子氏/医師は,死に対する“心”を涵養しつつ地域の実情に合った医療・介護システムの構築を(写真) 唐澤 近年,高齢化が進み,医療や介護の必要な方が増える一方で,看取りについても医療界の問題かと思っています.私ども医療担当者は,医学・医術の進歩による卓越した医療技術という“技”をもって奉仕することが大事ですが,最近,全人的な医療の必要性も感じています.
 しかし,医療あるいは医師側からの従来の考え方では対応しきれない高い壁もあります.そこで,羽田先生が映画を通して示されている,医療や介護についてのお考えを伺いたいと思います.
 羽田 最初にお断りしておきたいのですが,私は医学・医療の専門家ではなく,普通に暮らしている人間として自分が感じた矛盾や問題を,私の専門である映画を通して問題提起してきました.ですから,全く素人の視点での話,ある意味で普通の人間の率直な意見ということでご了解いただければと思います.
 唐澤 はい.そういう視点から言っていただくのが大事だと思っています.
 ところで,お正月が来るといろいろなことを思い出しますが,私は昭和十七年生まれですので,終戦後で三〜四歳だったのですが,先生は,何かお正月の思い出がありますか.
 羽田 私は大正十五年,旧満州の大連生まれで,会長より大分年上なものですから,強く印象に残っているのは,戦前の小学校から女学校時代,家が旅順にあった頃の豊かなお正月のことです.母がお重に詰める日本のお節料理とは別に,家の近くの中国料理店に注文し持ってきてもらう,大きなお皿にいろいろな料理がセットされたお正月料理のおいしさが非常に印象に残っています.それに,今とは違い,知り合いや隣近所にお年始のごあいさつ回りをするという風習がありました.
 当時は,女の子は着物を着せられていたのですが,母が結構ハイカラな人で,決して着物をつくってくれず,お正月は一番いい洋服を着て,お客様が見えるのを待って,おいしいごちそうをいただくのがとても楽しみでしたね.
 唐澤 確かに,お正月になると親類縁者や日頃付き合いのある人が集まって,にぎやかに過ごした時代がありましたが,最近は,家族だけで三が日を過ごす家庭が多くなったようですね.昔は,お年玉をもらったり…….カルタ取りや福笑い.男の子は,たこ揚げやすごろく.
 羽田 そう,お年玉をもらい,カルタ取りやすごろく,羽根つきもしましたね.
 唐澤 今は,お正月ならではの遊びや風習を,あまり見かけなくなりました.しかし,大陸は少し奥に入ると大変な寒波に襲われるそうですから,寒かったでしょうね.
 羽田 南の方でしたから,暖かくて,いちばん寒くても零下十度ぐらいでした.
 唐澤 元気で活発なお嬢さんでいらしたのですか.
 羽田 いえ,私はあまり丈夫ではなく,体操とかスポーツは至って苦手で,それほど活発ではありませんでした.
 唐澤 学生時代は,日本で過ごされたのですね.
 羽田 そうです.自由学園に入り,家が大連だったので,三年間寮に入っていました.
 唐澤 学生時代や岩波映画に入られた頃の思い出は何かありますか.
 羽田 学生時代は太平洋戦争真っただ中で,敗戦の年の卒業です.寮では食べ物がほとんどなく,ひどい生活をしていました.最後の一年間は学徒動員として中島飛行機製作所で零戦のエンジンをつくり,私は旋盤工でした.敗戦の年の三月,卒業式で空襲があり,記念写真もない時代でした.卒業後,大連の家まで,普通なら三泊四日のところを十日以上かけて,やっと帰りました.
 三年たって引き揚げて,本籍地の静岡で出版社に勤めたのですが,東京に出たくて,国会議事堂のすぐ脇にあったGHQのチャペルセンターに勤めました.その時,自由学園の恩師の羽仁説子先生が,私を岩波書店に引っ張ってくれたのです.
 当時,文字文化では岩波書店がトップでしたが,岩波茂雄氏の「これからは映像文化の時代に入る」という遺志を受けてつくられた,雪の研究で有名な北海道大学の中谷宇吉郎博士の研究室(岩波映画製作所の母体)に,スタッフに入らないかと声が掛かったのです.実は,映画はよく分からなかったのでお断りしたのですが,「本の編集はどうでしょう」と言われ,『岩波写真文庫』の編集スタッフとして,中谷宇吉郎研究室に入ったのです.
 当時中谷宇吉郎研究室には,写真の世界では非常に有名だった名取洋之助さんが岩波写真文庫編集長で,それと,私を誘ってくださった羽仁説子先生の息子さんで映画監督の羽仁進さんが,映画をやりたいということで入っておられました.
 最初は編集をしていたのですが,映画の部署が忙しくなり,そちらのスタッフに引っ張られ,やり出したらおもしろいものですから,映画の仕事をするようになったのが,この世界に入ったきっかけです.
 唐澤 私も映画のことは全く分かりませんが,映画をつくるのは大変だと思います.実は,岡本喜八監督,みね子御夫妻は,私の親の患者さんだった関係で,非常に親しくしてくれて,生田(いくた)の自宅へ行きますと,制作とか構想の途中なのか大変なご苦労をされているのが分かりましたから.
 羽田 私は,ドキュメンタリー映画で,岡本喜八さんは劇映画ですから,いろいろな点で違いがありますけれど,映画づくりは確かに大変ですよね.

医師本来の使命と終末期医療

 唐澤 先生がつくられた映画,『痴呆性老人の世界』『安心して老いるために』『終わりよければすべてよし』などは,われわれ医療界が今後考えていくべき,さまざまな問題を提起されています.しかし,これらの問題を乗り越えていくことは非常に難しいとも感じます.
 終末期医療では,生きるとか死ぬということは,その人の問題なのでしょうが,医療担当者としては,健康になって,もう一度復帰していただきたいというのが本来の使命であり,そのために自分の持てる知識や技術を提供するわけです.しかし,ご本人の考えよりも,使命だけを強調してやっていくのは,いかがかなとも言われており,その点は見直さなければならないと思っています.
 ただ,終末期医療でもホスピス医療でも,何か助ける道はないのかと徹底的に努力するのが医師の使命であり,最初からホスピス医療とか終末期医療に積極的に取り組むことは,「医療放棄」などと批判を浴びかねず,医師側としては,なかなか踏み切れない難しいところがあります.
 ドキュメンタリー映画は,恐らく許可は取られるのでしょうが,目の前に起こっている現実を映像化してつくられるわけで,いろいろなものが込められているはずですが,われわれは何を感じ取ったらいいのでしょうね.
 羽田 何を感じ取ったらいいかという質問は困りますね.その作品が訴えていることが問題であって,きちんと訴えられれば,きちんと感じてくださるわけですから,それは作品の問題であって見る方の問題ではないですよね.
 唐澤 確かに印象に残る映像は,全部頭に残っていますね.『赤ひげ』という作品も,本だと忘れてしまいますが,映画の映像だけは消えませんから,すごいですよね.
 羽田 おっしゃるように映像の力は非常に強くて,“百聞は一見にしかず”と言いますが,本をいっぱい読むよりも,パッと見た映像一つで分かってしまう.だから,ある意味で,映画をつくるというのは責任があると思います.
 今まで映画制作のなかで,どのくらい医療の仕事にかかわってきたか思い返してみましたら,岩波映画製作所が一九六四年に,日本医師会の企画で,『TV医学研究講座』というテレビ番組をつくったのですが,その時の会長は武見太郎先生でした.私は,当時,御茶ノ水の医師会館に伺って,武見先生が世の中で言われているほど怖い先生だとは知らずにお話ししていたのです.
 私がつくったのは,「脳出血」「神経症」「分裂症」など数本で,それが医学にかかわった最初です.一九六〇年代の後半で,日本の医学がすごい勢いで進歩し,まさに医学に対する信頼感が高まるところでした.
新春対談 唐澤祥人会長・羽田澄子氏/医師は,死に対する“心”を涵養しつつ地域の実情に合った医療・介護システムの構築を(写真)  唐澤 昭和三十年代からは,日本の経済が成長し,医学が急速に進歩した時代ですね.
 羽田 いくつか医学の番組をつくりながら,「なんて医学はすごいのだろう」と,大きな信頼感を持ったのです.それぞれの専門分野がものすごく進歩していく途中だったと思います.
 その後,全然違う仕事に入ったのですが,その医学に対して私が基本的な疑問を持ったのは,十年もたたない一九七二年,私の妹ががんで亡くなった時です.原発部位が卵巣にあり,腹腔内全体に転移していたことが解剖で分かりましたが,初めはお腹が腫れてしまい,何だか分からなかった.がんだということで入院し,数カ月で亡くなったのです.その時,最終的に痛みが非常にひどくなって…….
 唐澤 痛みがひどかったのですね.
 羽田 ええ.モルヒネを打ってくださるのですが,数時間でまた痛がるので,「何とかしてください」とお願いすると,「体に悪いからもう打てない」と言われるのです.私は驚き,痛みに対応する医療がないことを不思議に思いました.
 それから,最後に,もうだめかなと思った時に,私たち家族は部屋から出され,お医者さんがベッドに飛び乗って,妹の体を押しつけている.多分,心臓マッサージだと思うのですが,しばらくして,「ご家族の方,どうぞ」と言われて入ったら,妹は死んでいました.私は,その時,医療は人を生かすことに集中し,どうやっても生きなかったことで終わりになる思想しかないのだと思いました.
 人間はどんなことをしても死ぬ.そして医療は最も死に対応している学問であり,技術であるわけです.しかし,いくらやってもだめだったということでしか死を考えていないことに,非常に疑問を感じました.
 人間が死ぬ時に,最も身近に存在する医者が死について何も考えていないのはおかしいのではないかと思ったのです.でも,お医者さんは,尊敬すべき,何か怖い存在でもあり,そんなことを言える親しいお医者さんも身近にいなかったので,私はそれを飲み込んだまま,何十年も過ぎてしまったわけです.
 唐澤 がんの末期医療については,検討が重ねられ,日本医師会でも,『がん末期医療に関するケアのマニュアル』(平成元年九月十五日発行)や『がん緩和ケアガイドブック』(平成二十年三月発行)等の冊子を作成し,会員に配布するなどして,がん医療の水準の向上を図って努力をしているところです.

介護・福祉に対応するシステムの重要性

 羽田 その後,さまざまな傾向の作品をつくっていくなかで,私が再び医療に向かうきっかけとなったのが,『痴呆性老人の世界』という作品でした.
 今は「認知症」と言いますが,一九八二年当時の「痴呆症」には対応する薬もなく具体的な治療方法もない状況で,ある製薬会社から認知症に対する介護のあり方を考える学術映画をつくりたいという話が岩波映画に来たのです.それを私が担当することになり,監修者で,当時聖マリアンナ医科大学教授だった長谷川和夫先生が,「認知症に対して非常にすばらしい対応をしているから」と紹介してくださったのが,認知症の方が五十人くらい入院している熊本のK病院でした.下見で十日,撮影で約一カ月いたのですが,私は,認知症がどんなものか全く知らなかったので,人間がこんなふうになってしまうと知り,本当にショックでした.院長の室伏君士先生は,「確かに認知症は治らないが,介護の仕方で状態は改善出来る」と言われ,介護をする人は,落ちていく知能ではなく,残っている情緒を見て対応しなさいというのが大原則でした.
 物忘れがひどくなり,自分が何をしたか忘れてしまった人は,「さっき言ったじゃないの」とか「また同じことを言って」と,家の人に悪いことの指摘しかされず,何度も怒られて,だんだん精神不安になり,異常行動が増えてくる.それで,手に負えなくなって病院にくるわけですが,K病院では,お医者さんも看護師さんも,お年寄りが何をやっても絶対に否定的な言葉を使わないのです.
 そこにいる人は何をやっても決して怒られない.怒られないということは,自分の存在は否定されていないということで,精神が落ち着いて穏やかに暮らせるようになる.ですから,知能は衰えてくるけれど,落ち着いて静かな終末を迎えることが出来るわけです.室伏先生は,「ここでは薬はほとんど使いません.早ければ一週間,遅くても一カ月,頑張ってそういう対応をしていれば,みんな落ち着いてきて,症状が改善される場合もあります」と言われました.それが分かるような映画を撮りたいとつくったのが,『痴呆性老人の世界』です.
新春対談 唐澤祥人会長・羽田澄子氏/医師は,死に対する“心”を涵養しつつ地域の実情に合った医療・介護システムの構築を(写真)  実は,この映画をあるお医者さんに見ていただいた時に,「一体どこの施設ですか.病院なのですか」と聞かれたので,「ええ,病院です」と答えたら,「病院なのに,何の治療もしていないじゃないか」と言われたのです.私は,ハッとしました.つまり,お医者さんの意識のなかでは,介護が治療に結び付いていない.なぜ介護を重要視しないのだろうと不審に思い,また,宿題で抱えたままになりました.
 当時,お年寄りや認知症の方を抱えて困っている家族はたくさんいたのですが,どうしていいか分からず,世間体もあって,みんな黙っていました.上映会には,家族など,大勢の人が見に来られました.つまり,封鎖されて社会問題になっていなかった認知症の問題が,この映画によってオープンになっていったのです.
 私は,全く想像もしていなかったのですが,上映会がきっかけとなって,「いつだれがなるか分からない.その時こういう介護が必要なら,福祉の問題として考えないといけないのではないか」という話し合いの場が,あちこちで起きてきたのです.逆に私がそこから勉強したのは,認知症への対応が分かるだけではどうにもならない,つまり,対応出来ない家族が大勢いるということでした.どこの地域でも,介護に対応出来るシステムが要ると痛感し,『安心して老いるために』という映画をつくることになったのです.
 実は,『痴呆性老人の世界』をつくった後,特別養護老人ホーム(特養)がもっと必要だと思ったのですが,そこでは必ずしも私が描いたような対応をしていない.社会が対応出来るようにと考えて,良い施設を探し歩いて見つけたのが,岐阜県池田町のサンビレッジ新生苑で,『安心して老いるために』は,すべて池田町で取材することになりました.
 その頃は,どこの特養も封鎖的で,玄関や認知症のお年寄りがいる所は必ず閉まっているのです.閉めると可哀想ということで,新しい設計の特養のなかには,廊下がぐるぐる回れるようになっていて,認知症のお年寄りが同じ所を一日中歩いているという施設もありました.
 唐澤 現在,多くの痴呆対応の病棟は外へ出られず,ぐるぐる回る回廊になっていますね.
 羽田 そうです.それを見て悲惨な気持ちになりました.ところが,サンビレッジ新生苑では,玄関もデイルームのベランダの戸も開いていて,認知症で徘回する人は出て行ってしまう.すると,徘回する人ごとに“徘回専門パート”というアルバイトの担当者がいて,ずっと一緒に歩いて,くたびれた頃帰ってくる.K病院より一歩進んだ対応をしていたのです.
 さらに,当時,福祉が進んでいると言われていた,アメリカやスウェーデンなどの福祉先進国に行こうと考えました.アメリカは,老人が住むすばらしい地域が出来ていたのですが,その地域だけでしたので,国全体として対応していたスウェーデンに行って取材したわけです.
 唐澤 福祉先進国としては,北欧のスウェーデンやデンマークが有名ですね.
プロフィール
羽田 澄子(はねだ すみこ)
 1926年旧満州大連生まれ.1945年自由学園女子部高等科卒業.1950年岩波映画製作所入社.岩波写真文庫の編集,その他記録映画の演出等に携わる.1981年岩波映画製作所退社.以降,フリーの記録映画作家として活躍.映画作品:『痴呆性老人の世界』(1986年,岩波映画)『安心して老いるために』(1990年,自由工房)『終わりよければ すべてよし』(2006年,自由工房)など.著書:映画と私(晶文社,2002年),終わりよければ すべてよし(岩波書店,2009年)など.
 羽田 ええ,デンマークは認知症の人は病院に入院させている状況でしたが,スウェーデンではモタラという所でグループホームが成功したと話題になっていました.映像で日本にグループホームが紹介されたのは,『安心して老いるために』が最初だと思います.まだ日本では,「グループホーム」という言葉がなく,私は映画のなかで「グループハウス」と言っていますが.
 実は,グループホームを取材して,とてもうれしかったのです.というのは,K病院では,あれだけ落ち着いているのに,夕方になると,みんな「そろそろ家に帰ります」と言ってナースの所に来る.自分が家にいるとはだれも思っていない.どうしたらいいのだろうと考えていました.
 それが,モタラのグループホームでは,みんな自分の家にいると思って落ち着いているのです.日本とはけた違いに多いスタッフが家族として対応し,台所で料理をつくったり,みんなで一緒に食事をしたりと,家庭的な雰囲気をつくり上げていて,認知症の人にはこういう対応が必要なのだと強く感じました.
 一九九〇年に『安心して老いるために』が完成する数カ月前に,厚生省(当時)が「高齢者保健福祉推進十カ年戦略(ゴールドプラン)」を発表し,それと前後する形でしたので,多くの方が見てくださいました.

終末期医療で問われる医師の“心”

 唐澤 認知症の方の介護から,福祉システムのあり方へと,「老いを支える」というテーマの作品をつくってこられたわけですね.そして,『終わりよければ すべてよし』をつくられた…….
 羽田 はい.そのうち,ほとんどの人が終末期には病院に運ばれていた特養のサンビレッジ新生苑に,緩和ケアに対応出来る医師が常駐するようになって,八〇%の人が施設で最期を迎えるようになり好評だというのです.その頃には緩和ケア病棟が出来て,がんの終末期についても問題になっていました.
 そして,富山県の射水市民病院で人工呼吸器を外したために患者が亡くなったということで病院長が謝罪会見をしたとの報道を見て,私がずっと抱えていた医療に対する不信感のようなものが表立って問題視され,話し合っていい雰囲気が出来てきたなと感じました.これがきっかけでつくったのが,『終わりよければ すべてよし』です.それまでは,人間の死についてあれこれ言うのは僣越ではないか,知識もないし,ものが言えないという感じでしたが,私も八十を越したから,何を言われてもいいという気になってつくったのです.
 先ほど,会長のお話を伺って,お医者さんは,責任を負わされ,何かあったら訴訟を起こされるのですから,やれるところまでやろうと考えるのは当然ではないかと思いますが,やはり,医学,医療が死をどうとらえるかということを,教育しなければいけないと思うのです.
 これは教育だけで済む問題ではなく,お医者さん一人ひとりの決意というか,思想の問題です.はっきりした思想をきちんと持っているお医者さんであれば,患者さんは納得するし,たとえ訴訟が起きたとしても,対応出来るのではないかと思います.そういうことを考えて欲しいと思ってつくったのが,この映画なのです.
 唐澤 今の先生のお話に,今後,日本の医療・介護に求められることが全部現れているように思います.世の中が動かなければいけないと思いますし,医師には,やはり教育が大事なのですが,どうも抜けていますね.
 ホスピスや緩和ケアなど終末期に医療提供をする場合は,知識,書物,哲学,倫理だけでなく,宗教など何か心を支えるものがないと無理だろうと思います.
 これからは,われわれ医師の専門団体としても,ここを出発点として生かしていきたいと思います.インフルエンザのワクチン接種などにおける“ブースター効果”ではありませんが,決意とか志といったものが,最後は誓いのようなものになって広まれば,大きな力になっていきます.
 医療においては,学問や医療技術も大事だけれども,死に対する“心”を培うことの重要性を先生にご指摘いただいたような気がします.
 羽田 私などが言うのは僣越ですけれども,本当に一人の患者として,お医者さんに期待することです.
 唐澤 そのとおりだと思います.私も,一昨年に脳外科,八年くらい前に消化器で二回の手術を受けています.顧みて自分が医療を受ける患者という立場になると,複雑なものがありますね.
 しかし,みんなの気持ちを大きく動かすというのは大変なことですが,映画は,映像が気持ちを広げていきますから,そういう点はいいですね.
 羽田 そうです.『痴呆性老人の世界』をつくった時の反響を見て,「ああ,映像の仕事をしていて本当によかった」と思いました.
 唐澤 これから八百万人といわれる団塊の世代も高齢者といわれる年代に達し,看取りや介護が必要となってきます.さらに,認知症の方も増加してきますから,世の中がどう対応していくかは大きな問題です.もう政治とか政局だけの時代ではないということを,国民の皆さんにも何とか気付いて欲しいのです.
 私はいつも,「地域の皆さんが気付いて取り組んでくれないといけない」と話しているのですが,まだ認知症とか精神障害といった方々に対して地域社会の思いは向いていないのが実情ですね.
 羽田 そうですね.でも,『痴呆性老人の世界』をつくった時から見たら,認知症問題への認識は非常に広がってきたように思います.
 今では,呆けたと言っても,そう不思議がらない時代になりましたからね.
 唐澤 脳血管性の認知症は防げるかも知れませんし,それは医学的な大きな命題です.
 しかし,発症された方をどうするかということも大事で,認知症に限らず,われわれ医療者が,地域の医師会等を中心にして,国民のニーズに応えられるような,地域の実情に合った医療・介護システムの構築を推進していくべきだと考えているのです.
 医療・介護・福祉の分野で,どのような役割を果たしていくか,今,問われているのではないかと思います.
 本日は本当に,ありがとうございました.

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