通院困難となった患者さんの暮らしを住み慣れた地域で支える在宅医療への期待と共に、在宅医療の本来のあり方も問われている。
ご本人の意思の尊重のもと、人生の最期まで尊厳を保持し、自分らしく暮らしていただくために、介護や障害福祉サービス等との連携による多職種協働が鍵を握ります。
本シンポジウムでは、在宅医療を実践する様々な立場からの取り組みをとりあげ、今後の在宅医療の提供体制やあるべき姿について考えることを目的に開催しました。
当日の講演の模様は、日本医師会公式YouTubeチャンネルにてご視聴いただけます。
令和6年3月20日(水・祝)13時30分~16時30分
日本医師会公式YouTubeチャンネルでライブ配信いたします。
日本医師会公式YouTubeチャンネル
●オンライン ライブ配信
(1)開 会 | 司会 日本医師会常任理事 江澤和彦 | |
(2)開会挨拶(5分) | 日本医師会長 松本吉郎 | |
(3)基調講演(①~②各20分) |
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講演資料 | ||
①「在宅医療の体制整備について」 厚生労働省 医政局 地域医療計画課外来・在宅医療対策室長 谷口倫子 |
(3.3MB) |
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②「地域包括ケアシステムと在宅医療」 厚生労働省 保険局 医療課長 眞鍋馨 |
(3.3MB) |
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(4) シンポジウム(①~⑥各15分、⑦25分) 座長:医療法人社団つくし会 理事長 新田國夫 |
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講演資料 | ||
① かかりつけ医の立場からⅠ 「外来から看取りまで患者に伴走する医師、地域を面として支える医師会を目指して」 医療法人財団千葉健愛会 あおぞら診療所 院長 川越正平 |
(3.9MB) |
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② かかりつけ医の立場からⅡ 「在宅ケアの平時を考える ~令和6年能登半島地震の現場から~」 ごちゃまるクリニック 院長 小浦友行 |
(12MB) |
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③ 小児在宅の立場から 「子どもと、家族・きょうだいに関わる小児在宅医療」 ひばりクリニック 院長 髙橋昭彦 |
(1.5MB) |
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④ 在宅療養支援病院の立場から 「地域のニーズに応え続ける」 社会医療法人祐愛会 織田病院 副院長/総合診療科部長 織田良正 |
(5.4MB) |
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⑤ 訪問看護ステーションの立場から 全国訪問看護事業協会 常務理事 東久留米白十字訪問看護ステーション 所長 中島朋子 |
(719KB) |
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⑥ 都道府県医師会の立場から 「医師会主体の在宅医療ネットワークの構築について」 新潟県医師会 理事/在宅医療推進センター長 小柳亮 |
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⑦ フロアを交えた意見交換 | ||
(5)閉会挨拶(5分) | 日本医師常任理事 釜萢敏 | |
(6)閉 会 |
日本医師会 介護保険課
【その他】
【日本医師会】
for International Patients.
This website provides useful links for those times when you feel sick or need to find a medical facility that accepts foreign visitors to Japan.We hope you will find it useful.
【その他】
Apps and websites useful in times of disaster. You can learn disaster information in Japan.
日本の災害情報などを知ることができる、スマートフォンのアプリとWEBサイトを紹介するリーフレットが多言語で掲載されています。
主催 | 公益社団法人日本医師会 | |
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後援 | 内閣府 | |
開催日時 | 2024年2月29日(木)17:00~19:00(※終了しています) | |
開催方法 | オンライン開催(ライブ配信)
アーカイブ配信はこちら【4月末まで】 (※単位の取得はできません) |
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参加対象 | 医師、医療関係者、学生や関係者等で、生命倫理に関心のある方あるいはこれまで学ぶ機会の少なかった方 | |
参加方法 | ① 日本医師会Web研修システム ※医師の方で単位取得を希望される方 |
●日本医師会生涯教育制度
●事前参加申込み【12月開始】
(右の二次元コードからも、申込みいただけます)
※当日は、パソコンで受講してください。スマ-トフォンで受講はできません。 |
② 日本医師会公式YouTubeチャンネル ※①以外の方 |
●オンライン ライブ配信
(右の二次元コードからも、ご覧いただけます) ※事前参加申し込みは不要です。 |
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参加費用 | 無料 | |
概要・リーフレット | シンポジウム概要・リーフレット |
プログラム
司会:渡辺 弘司(日本医師会常任理事) |
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開会挨拶 (17:00~17:05) |
松本 吉郎(日本医師会会長) | |
シンポジウム 座長:永井 良三(自治医科大学学長) |
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※講演当日、講演資料が一部変更となる場合がございます。 |
講演資料(2月28日掲載) | |
シンポジウム① (17:05~17:40) |
「多能性幹細胞からヒト胚に類似した構造を誘導する研究の最新知見と展望」 【要旨】iPS細胞に代表されるヒト多能性幹細胞を用いることでヒト胚に類似した構造体を誘導することが可能になった。究極的な臓器を作りだせる可能性が膨らむとともに新たな生命倫理問題も惹起している。世界的に研究が加速する本分野を概説する。 |
(4.2MB) |
シンポジウム② (17:40~18:15) |
「受精卵へのゲノム編集遺伝子研究に関する世界的な取り組みや考え方」 【要旨】ゲノム編集技術が進展する中、2018年にゲノム編集ベビーが誕生。受精卵へのゲノム編集は遺伝病のリスクを低減する可能性があるが、科学的・医学的な憂慮事項はまだクリアされていない。国際的な議論で科学的ガバナンスの模索が進行中。受精卵の課題についても報告する。 |
(8.5MB) |
シンポジウム③ (18:15~18:50) |
「倫理的・法的・社会的な課題とその解決に向けて」 【要旨】人の生殖に関わる新しい技術は、「生命」「親子」「家族」の概念、そして、これらを基盤とする社会に影響を及ぼし得るものである。そのため、新技術を社会としてどのように利用していくか議論が必要である。本報告では、議論が必要な課題を概観し、その解決に向けた道筋を考えたい。 |
(4.4MB) |
意見交換(18:50~19:00) |
日本医師会医療技術課:
人間や動植物のいのちの輝く一瞬をとらえた写真や、医師や看護師、患者との交流をつづったエッセーを募集する「生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー」を開催しています。
本コンテストは、これまで長年にわたり開催されてきた 「生命(いのち)を見つめるフォトコンテスト」と「『心に残る医療』体験記コンクール」を統合、リニューアルしたもので、見た方、読んだ方が、生命(いのち)を見つめるきっかけとなるような作品を募集しています。
「第7回 生命を見つめるフォト&エッセー」のコンテスト概要の詳細は 公式ホームページ をご覧ください。
※応募締め切り:2023年10月4日(水)必着
※応募は締め切りました。たくさんのご応募ありがとうございました。
※受賞作品名をクリックして頂くと別ウィンドウで開きます。
■熊切大輔(日本写真家協会会長)
生命という大きなテーマをそれぞれの解釈で、それぞれの被写体でバラエティに富んだ作品を拝見することができました。日常の中の幸せ、喜びとその瞬間を素直にうまく切り撮った作品が多く審査も楽しく行えました。
厚生労働大臣賞「熱烈大好き」は、本当に誰しもが見るような日常的光景。孫とおじいちゃんの微笑ましい一コマです。しかしその表情が魅力的です。それぞれが本当に楽しそうで生き生きとしています。子ども達の純粋な笑顔に比べておじいちゃんのちょっと困ったような嬉しいような複雑な表情がなんとも言えません。平凡な身の回りでも良い瞬間を
日本医師会賞「ちからをあわせて!」は、とてもおしゃれな子ども達が車椅子のご老人を力を合わせて力いっぱい押しています。その一生懸命さがよく伝わる作品です。その動きで子どもたちの純粋ないたわる思いが伝わってくるようです。被写体は組み合わせでストーリーが変わってきます。ご老人と子供という両極な登場人物が世代を超えた
読売新聞社賞「桜の木の下で」は、春満開のベストなタイミングでのファミリーフォトとなりました。花に包まれるようなフレーミングはいわゆる額縁構図で被写体を華やかに縁取って、作品を見るものの視線を誘導できています。階段が生む対角線をうまく使いピンクと黄色の色の分割をうまく見せています。春の暖かさや空気感を感じられる作品になっています。
審査員特別賞「歓びの舞」は、一瞬を切り撮る、写真ならではの表現です。ここには二つの瞬間が写っています。二羽の海鳥の羽ばたきはその瞬間両側に広がりシンメトリックな形を作りました。更に水の表情は岩にぶつかった飛沫が力強い形を作っています。それらを美しい光線が照らしており、様々な瞬間がまとまった、奇跡的な一コマと言えるでしょう。
審査員特別賞「穏やかな日」は、被写体のご夫婦の距離感、信頼関係が見るものに伝わるような作品表現です。人が積み重ねてきた人生にはそれぞれストーリーがあります。写真はそんな目に見えないものを写し出すのではないでしょうか。平坦ではない道のりを歩き続けるにはパートナーのサポートが欠かせません。そんな人生そのものが写っている気がします。
文部科学大臣賞「みんなでジャンプ!」は、子ども達の撮るピュアな目線にはいつも驚かされます。孫とおじいちゃんでしょうか。高さのない倒木の上からのジャンプですがお孫さんは少し
「生命」という強いテーマは説明的になりがちです。生命から何を感じるのか、どんなメッセージを伝えたいのか。テーマを深掘りしアレンジすることで被写体の幅も表現の手法も、もっと大きく広がっていくでしょう。多種多様な作品を期待しております。
■岩合光昭(動物写真家)
このコンテストの趣旨であり、目的でもある「生命を見つめる」ということを、みなさんよく考えながら撮影されています。穏やかで微笑ましい作品が多く、見ているこちらの気持ちまで温かく豊かになりました。
厚生労働大臣賞「熱烈大好き」は、笑顔が絶えない家族なのでしょうね。いきいきとした3人の表情、撮影者の笑顔も見えるようです。込み入ってぐちゃぐちゃになりそうな場面を、あえて大胆に踏み込んで撮った画面構成が秀逸です。見事なシャッターチャンスが、力強い作品にしています。
日本医師会賞「ちからをあわせて!」は、掛け声が聞こえてきそうな子供たちの活気に、車椅子のご婦人の穏やかな笑顔、それを静かに見守る保護者の方。生命をつなぐ動と静とを、見事に表現しています。やさしい世界を壊さぬよう、距離をおいて撮影をした撮影者の姿勢も好ましいです。
読売新聞社賞 「桜の木の下で」は、春
審査員特別賞「歓びの舞」は、岩に砕け散る波と舞い上がる2羽の海鳥。一瞬を見事に捉えました。逆光の輝きがドラマチックな演出をしています。すべて計算されているのでしょうか。動物写真は偏りがちで、同類の発想に陥ってしまうことが多いのですが、撮影者の視線は魅力的ですね。
審査員特別賞「穏やかな日」は、夕暮れ、一日の終わり。ご夫妻でしょうか。お互いを気遣うおふたりの表情が、強く伝わってきます。明るさも含めて、なかなか撮れそうで撮れない作品です。後方に続く道が画面構成に生きていて、おふたりの人生の歩みまで感じさせます。
文部科学大臣賞「みんなでジャンプ!」は、おじいちゃんとお孫さんでしょうか。大人なのに本気でジャンプをする姿に、
■奈緒(俳優)
みなさんの感性に胸を打たれ、たくさん心を動かされました。実は選考中に涙してしまう瞬間があったほどです。「桜の木の下で」のように"誕生の幸せ"を感じる作品から、「熱烈大好き」のように"日常の幸せ"を感じる作品、「穏やかな日」のように"人生を重ねる幸せ"について考えさせられる作品まで、改めて1枚の写真が生み出すパワーを再確認することができました。
厚生労働大臣賞「熱烈大好き」は、おじいさんとお孫さんでしょうか。お三方の表情がそれぞれ本当に楽しそうで、何気ない日常の中でこういう瞬間があることがどれだけ幸せなことなのかに改めて気付かされました。とてもユニークで可愛らしいタイトルも好きです。この場にいる誰もが笑顔だったに違いないと感じました。
日本医師会賞「ちからをあわせて!」は、車椅子を押す3人の子ども達、そして見守っているのは先生でしょうか。子ども達も力を合わせてひとつの車椅子を動かし、そして大人も子供と力を合わせて生きているんだと感じられる1枚でした。人の優しさが
読売新聞社賞「桜の木の下で」は、見た瞬間に命が誕生することの愛おしさが伝わってくる1枚でした。何気なくお散歩をしていたらとても幸せな瞬間に出くわしたかのように自然で、色彩も美しく、桜色、黄色と家族でお
審査員特別賞「歓びの舞」は、シンプルに浮かび上がる二羽のシルエットと水面の輝き、美しい構図にうっとりしました。タイトル通り、鳥たちがまるで歓びの舞を踊っているようですし、力強い波のしぶきとこの舞が重なる瞬間に出会えた撮影者の歓びも伝わってくるように感じました。
審査員特別賞「穏やかな日」は、ご夫婦の穏やかな1日を切り取った1枚でしょうか。後ろに続く道がまるでお二人が
文部科学大臣賞「みんなでジャンプ!」は、こんな瞬間が撮れたら家族で大笑いできますね。純度が高く写真のおもしろさを再認識できる写真でした。見事に高く飛ぶおじいちゃん、そしてこれから飛ぼうとしているお子さん。おじいちゃんの背中を見ながらスクスクと育ってほしいです。写真としても横たわる木がアクセントになっていて素敵です。
■養老孟司(東京大学名誉教授/解剖学者)
例年、応募作品を読ませていただく。力の入った、心を動かす作品が多い。私自身は年寄りなので、感動が続くと疲れてしまう。作者の想いを、決められた字数の中で過不足なく表現するには技術が要る。淡泊な作品を期待するが、これはかなり欲ばった要求で、あまり強くは言えないと思う。今年も感動させられっぱなしで、いささか疲れてしまった。
■玄侑宗久(作家/福聚寺住職)
今年もさまざまな病気、介護、出産などについての文章を拝読し、「生命を見つめる」充実した時間を頂戴した。医師や看護師、介護士の方々が支える現場、そして一つの命を取り巻く無数の人々との関わりが、今も日本各地で行なわれていることを想うと、パレスチナのガザ地区の病院への攻撃に、つい叫びたくなる。
人間が、有史以来すこしも賢くなっていないのは、まず間違いない。しかし私は、入賞作品を読み返しながら、人間の優しさや
■水野真紀(俳優)
終わりの見えない紛争による死者数に心が
わずか数グラムの原稿用紙、そして千何百文字が起こす奇跡とでも申しましょうか。作品に宿る生命の重みやぬくもり、、、それらが他人事から自分事へと昇華されるような、そんな感覚が生じるのです。様々なお立場の方の、心身のフィルターを通した奇跡でもあります。
自分のためだけではなく、誰かを
そしてよろしければ、、、貴方も来年「奇跡」を起こしてみませんか?
応募規定
■応募作品は、応募者本人が撮影した未発表作品に限ります。
※デジタルカメラで撮影したもの、デジタルプリントも応募可能です。
※500万画素以上であれば携帯電話等での撮影も可能です。500万画素未満の場合は選考対象外になることがあります。
※画像処理等の加工、合成及び組み写真は不可とします。
■作品のプリントサイズは、キャビネ判(2L)とします。
■応募作品は、2021年6月1日以降に撮影したものに限ります。
■応募は1人3点までに限ります。
応募方法
■ウェブサイトからの場合は公式ホームページの応募フォームより応募してください。
■郵送の場合は、応募作品の裏に、題名、氏名(ふりがな)、年齢(生年月日)、郵便番号、住所、電話番号(FAXがあればFAX番号も)、メールアドレス、職業(または学校名と学年)、撮影年月日、撮影場所、撮影に使用したカメラ等の機材名を明記した紙を貼り、下記の作品送付先に送って下さい(応募用紙は公式ホームページよりダウンロードしてご利用下さい)。
※なお、審査期間中にオリジナルデータを提供していただく場合があります。
※ご記入いただいた個人情報は、受賞した場合の連絡、作品に関する問い合わせ、取材、本コンテストに関するご案内のみに使用し、それ以外の目的での使用や、第三者に譲渡することはありません。
※氏名は実名のみの受付となります。
注意事項
■盗作、二重応募、類似、事実ではない創作作品の応募は固くお断りいたします。応募作品について、盗作等による著作権侵害の争いが生じても、主催者は責任を負いません。
※すでに書籍化したものや、公の刊行物に掲載されたものは応募不可とします。
※違反が確認された際は、受賞決定後も賞の取り消しとなる可能性があります。
■応募作品は返却いたしません。
■入賞作品についての著作権は、撮影者に帰属します。ただし、入賞作品について、読売新聞紙上及びその他広報物に使用する権利は、主催者が有します。
■入賞作品の発表では、新聞紙面およびウェブサイトに、作品と実名、年齢、顔写真、学校名(小中高生の場合)を掲載します。ペンネーム、イニシャル等による発表はできません。
■医師および医療従事者も応募可能です。
応募規定
■自作の未発表作品に限ります。
■一般・中高生の部:2,000字(原稿用紙1~5枚)以内。
■小学生の部:1,200字(原稿用紙1~3枚)以内。(ペットや動物の命にまつわるエピソードも応募可能)
■応募は1人1点までに限ります。
■チャットGPTを利用して文章を作成した作品は応募できません。
※パソコン、ワープロ使用の場合、1ページ400字(20字 20行)。
※ウェブ応募の際は公式ホームページからダウンロードしたテンプレートを使用してください。
応募方法
■ウェブサイトからの場合は公式ホームページの応募フォームより応募して下さい。
■直筆の場合、鉛筆(Bまたは2B)、ボールペン、万年筆のいずれかを使い、濃く書いて下さい。
■郵送の場合は、作品に応募用紙をつけて、題名、氏名(ふりがな)、年齢(生年月日)、郵便番号、住所、電話番号(FAXがあればFAX番号も)、メールアドレス、職業(または学校名と学年)を明記して下さい。封筒の表に「一般の部」または「中高生の部」、「小学生の部」を明記し、下記の作品送付先に送って下さい(応募用紙は公式ホームページよりダウンロードしてご利用下さい)。
※ご記入いただいた個人情報は、受賞した場合の連絡、作品に関する問い合わせ、取材、本コンテストに関するご案内のみに使用し、それ以外の目的での使用や、第三者に譲渡することはありません。
※氏名は実名のみの受け付けとなります。
注意事項
■盗作、二重応募、類似、事実ではない創作作品の応募は固くお断りいたします。応募作品について、盗作等による著作権侵害の争いが生じても、主催者は責任を負いません。
※すでに書籍化したものの要約や、公の刊行物に掲載されたものは応募不可とします。
※違反が確認された際は、受賞決定後も賞の取り消しとなる可能性があります。
■応募作品は返却いたしません。
■入賞作品についての著作権は、主催者に帰属します。入賞作品は、主催者が管理するウェブサイトで使用されるほか、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・書籍・教材などに利用されることがあります。
■入賞作品の発表では、新聞紙面およびウェブサイトに、作品と実名、年齢、顔写真、学校名(小中高生の場合)を掲載します。ペンネーム、イニシャル等による発表はできません。
■医師および医療従事者も応募可能です。
作品送付先
〒104-0061 東京都中央区銀座7-15-5 共同ビル3F
「生命を見つめるフォト&エッセー」係
お問い合わせ先
〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1
読売新聞東京本社 次世代事業部「生命を見つめるフォト&エッセー」事務局
TEL:03-3216-8598(平日午前10時~午後5時)
または[公式ホームページ]まで
大重 明花里(7歳)鹿児島県
「おおばあばにあえるの。やったあ。」
わたしはとってもうれしくて、ばんざいをしてよろこびました。おおばあばは、わたしのひいおばあちゃんです。ひいおばあちゃんは96さい。グループホームでくらしています。コロナウイルスをうつしたらいけないので、あいにいくことができませんでした。ひさしぶりにあえるので、わたしはわくわくしていました。おとうさん、おかあさん、おねえちゃんもうれしそうでにっこりえがおです。
グループホームにつくと、ひいおばあちゃんは、びっくりしたかおで、
「あかりちゃん、よくきたね。おおきくなったね。なんさいになったの。」
ときいてきました。わたしは、
「6さい。いちねんせいになったよ。」
とこたえました。
「もういちねんせいなの。おおきくなったね。」
ひいおばあちゃんは、にこにこやさしいえがおでいいました。かぞくでたのしくおしゃべりをしていました。しばらくすると、ひいおばあちゃんが、
「あかりちゃん、なんねんせいになったの。」
といいました。わたしは、「あれ、さっきこたえたよ。きこえなかったのかな」と、こころのなかでおもいました。
「いちねんせいになったよ。」
こんどは、おおきなこえでいいました。
「いちねんせい、おおきくなったね。」
さっきとおなじへんじでした。「ひいおばあちゃん、どうしたの。みためはいつもとおなじだけど、はなすとちょっとちがう」わたしはふしぎなきもちのまま、いえにかえるじかんになりました。
「おおばあば、またくるね。」
おおきくてをふってわかれました。ひいおばあちゃんがにっこりわらいました。わたしはきゅうになみだがぽろぽろあふれてきました。あえてすごくうれしかったのに、すこしさみしくなりました。かぞくもえがおがきえてさみしそうでした。おとうさんが、
「これがとしをとるということだよ。おなじことをきくのは、おおばあばがわるいわけではないよ。」
といいました。わたしは、おなじことをなんどきかれても、いやなきもちにはぜんぜんなりませんでした。わたしは、ひいおばあちゃんがだいすきです。ひいおばあちゃんのやさしいえがおは、みんなのこころをたいようみたいに、あたたかくしてくれます。つぎあったときも、ひいおばあちゃんは、またおなじことをきくかもしれません。それでもわたしはいっぱいいっぱいおはなししたいです。
おおばあば、テストでひゃくてんとったよ。おともだちもたくさんできたよ。はなしたいことがいっぱいあるよ。ひゃくさいまでながいきしてね。
青山 栞奈(8歳)京都府
わたしは、あせがでないびょうきです。
あせがでないので、うんどうをしたり、あつい日にそとにでるとねつがでてしまいます。じんましんというかゆいぶつぶつもでます。だから、このなつは学校にほとんど行けませんでした。毎日、たくさんのくすりをのんで、毎月いたいちゅうしゃをがんばっていますがなおりません。
びょうきはがんばってもなおるびょうきとなおらないびょうきがあります。
わたしのびょうきは、なかなかなおりません。つよいくすりをのんでいるので、かおがまるくなりました。せもなかなかのびません。かおのことを言われてかなしいきもちになったこともあります。
びょうきも大きくなってちりょうをしたらなおるかもしれませんが、それまではこのままの生活をつづけます。
花火をしたり、プールにもいきたいです。
でも今のわたしはいけません。
そんなわたしがかわいそうでしょうか? びょうきをみつけた先生が「今までたいへんだったね。」と言ってくれました。
たんにんの先生は「出きることだけがんばってくれたらいいよ。」と言ってくれました。
友だちは休みがおおいわたしがうんどうかいでダンスをまちがえたらそっとフリをおしえてくれました。
ちゅうしゃをがんばり、なかなかったと言うとたくさんほめてくれるおねえちゃんもいます。びょうきでつらいこともおおいけれど、いろいろな人からたくさんのやさしさをもらえてしあわせです。
わたしにはびょうきがあるけれど、目が見えない、耳がきこえない、手足にしょうがいのある人もいることを本でよみ、知りました。
みんなそれぞれいろいろなことをがんばっています。
わたしはみんなにつたえたいことがあります。せかいにはいろいろなしょうがいやびょうきの人がいます。みんなそれぞれのあたりまえがちがいます。みた目やできないことを口に出していわれたらきずつきます。
また、しょうがいやびょうきがかわいそうなわけではありません。みんなそれぞれのしあわせがあります。できる人ができない人をそっとささえられる、そんなやさしいせかいになってほしいです。
わたしはわたしのままでいいとおもっています。
蛯原 丈翔(11歳)宮崎県
「学校へ行きたくないし、病院にも行きたくない。」と、先日、Kは言い出した。
僕とKは、クラスメイトで一番の仲良し。授業で分からないところを、お互いに勉強したり、宿題を2人でしたり、いつも2人で一人前。Kは心臓病で具合が悪い。僕はしゃべることができない。体を激しく動かせないKの分を、僕が体育でボールを取ってあげる。学習発表できない僕の分を、Kがスラスラと代読してくれる。毎日、毎日、支え合って学校生活を送っている。
Kが時々、体調不良になると学校を欠席する。すると、僕の学校生活は、めちゃめちゃになる。授業は分からないまま、ただ聞いているだけ。不安な中、座って会話ができずに、首を縦横に振るだけで、コミュニケーションを取れず誰とも交われない。静かすぎて、忘れ去られているクラスの中での僕の存在。
Kとは、ずっと一緒にいるからか、何も言葉を交わす必要がない。僕の目や手足の動きで、気持ちを大体、分かってくれる。学校の先生や親にも理解してもらえないことでも心が通じる。改めて思い返すと、以心伝心で一度もけんかしたことがない。
今日、各家庭と学校で、社会のZOOM授業に変わり、Kと僕が、休憩時間に、パソコン上で2人きりになった。学校とは違う雰囲気だから、お互いぬいぐるみを使って会話をしてみた。「大人になったら、2人で世界の中心へ行こう。」と、Kのぬいぐるみが言う。「うん、大人になったら行こうネ。いつも、Kが居てくれたから、学校が楽しいし、僕は学校へ行ける。」紙へペン書きし、画面へ向ける。「僕もだよ。丈翔が居るから、病気を治して学校へ行きたい。」Kのぬいぐるみと一緒に笑って画面に出てくれる。「良かった。ずっと、ずっと、学校で一緒だよ。」筆談する。
ZOOM授業後、手を振りながら、Kが明るく前向きになって、また学校へ行きたいと言ってくれたことが、うれしかった。大人になったら、世界の中心へ行こうと約束したから、早速、社会の教科書を調べる。行ってみたい国だらけで、約10年後、世界の中心になる国は、いったいどこだろう? 全く見当が付かないから、明日、ZOOMでKに聞いてみよう。Kはどこの国へ行きたいと言うだろうか? 2人の将来の目標ができた。Kが居てくれるから、自分の世界が広がって楽しみで仕方ない。僕の人生は前よりも、ずっと良いものになった。いつまでも友達でいて下さい。これからも、君と一緒に、たくさんの思い出を作っていきたい。
諸根 さつき(12歳)福島県
「うちは牛の命と引き換えにお金をいただいている。牛のおかげで生活できているんだよ。」
両親に、小さい頃から言われている言葉。小さい頃は、そうなんだとしか思っていなかった。しかし、私は今年、そのことを実感することになる。
私の家は、畜産業を営んでいて、黒毛和種という肉用牛を飼育している。
8月6日。この日は、家で生まれた3頭の牛とのお別れの日だった。
1頭目は福太郎。令和3年2月28日生まれ。生まれた時は小さく、とてもかわいい子牛だった。ちょっとこわがりでおとなしくてとってもいい子。2頭目は、北斗。令和3年3月16日生まれ。生まれる時、お母さん牛からなかなか出てくることができず、獣医さんが来て助けてもらった。人なつっこくて優しい子。3頭目は、武蔵。令和3年3月31日生まれ。お母さんのおなかにいる時からとっても元気で、生まれた時も大きくて、でも甘えん坊の優しい子。
3頭とも、母が人工
「福太郎と北斗と武蔵をつかまえるよ。」
出荷の日の朝、母にそう言われ、重い足取りで牛舎に向かった。そこでは、もうすでに父と母が牛たちを捕まえてロープでつないでいた。
「最後だから、ブラッシングをしてあげよう。」
母にそう言われ、ブラシで一頭一頭ていねいにブラッシングをする。
「みんな今までありがとうね、ありがとうね。」
母の目は真っ赤になっていた。私もブラシで背中や顔をこすってあげた。みんな気持ちよさそうにおとなしくしている。その姿を見ると、とても悲しい気持ちになった。
いよいよトラックに載せる時がきた。父がロープを引き、母と私で牛のおしりを押した。そして、私は父とトラックに乗り、I町にある畜産センターに向かった。トラックの中で私たちは無言だった。
畜産センターに到着し、3頭をトラックから降ろした。他の農家の牛たちに負けない体格をした3頭はとても立派で、私もとてもほこらしい気持ちになった。
3頭は別のトラックに載せられ、出荷されていった。私は、悲しい気持ちをこらえて、笑顔で見送った。それが私にできる最後のことだと思ったからだ。それからも、うちは牛を育てる。そして、その命と引き換えにお金をいただく。だからこそ、自分が今精いっぱい生きることが牛への恩返しになると思っている。大切な牛の命に感謝して生活したい。
奥田 杏(14歳)広島県
「可愛いなぁ。可愛いなぁ。」
祖母はいつも私にこう言ってくれました。生まれた病院で
今、私の祖母は要介護5です。9年前に若年性アルツハイマーと診断されました。若かったうえ、進行を止める薬が合わなかったため、診断されて早いうちに自分で歩いたり、食べたりという生活の全てにおいて介護が必要になりました。祖母の意思ははっきりしていて、できることなら施設にはまだ入りたくないという思いが強く、祖父も私たち家族もできるところまで家で生活してもらおうと決定しました。そこで、私と母が祖母の介護のために母の実家に住み、父は仕事と家があるので、家と母の実家を行き来する生活になりました。
祖母は一般に言われる
祖母は母と私で毎日お風呂に入るのが楽しみになっていました。母と私で祖母を抱えて湯船に浸り、女子三世代で楽しい会話タイムでした。
ちょうど2年前の夏に、ご飯を食べなくなりました。それまでも夕食だけに1時間半の時間はかかっていたのですが、その夏は夕食だけでも食べる時と食べない時があるので、3時間かけての夕食時間でした。食事介護をしている母も限界を感じていました。家での生活はもう無理だろうという時に、太ももとお尻の間に
祖母は毎日9時にデイサービスの職員さんが迎えに来てくれて4時に家に帰ってくるようになりました。毎日のお風呂は、私と母ではなくデイサービスの職員さんにお任せすることになりました。私は寂しかったですが、祖母は毎日昼に入浴でき、きれいにしてくれるため、楽で喜んでいるようです。祖母がデイサービスから家に帰ると、かかりつけのお医者さんや訪問看護師さんたちが毎日来てくれて体の調子と褥瘡の処置をしてくれます。少し調子の悪い時は、電話やLINEでどうしたら良いか、教えてくれるので家族みんな安心して祖母の介護ができています。
褥瘡が酷くなった時、病院や施設で見てもらうことを考えましたが、かかりつけ医の先生をはじめ、看護師さん、施設の職員の心からの支えと助言のおかげで、私たち家族は精神的にも肉体的にも救われ、祖母が望む家での生活ができています。介護は並大抵ではできません。しかし、家から祖母がいなくなったら、祖父も母もどうしたらよいか分からないと思います。今は、かかりつけ医の先生にたまに来てもらっているくらいで、訪問看護師さんには来てもらわなくて大丈夫なほど祖母は元気です。
私は昨年の春から、中学の寮に入って生活しています。長期休みに帰って祖母に会っています。母が言うには、私の食事介護なら張り切って口を開けるそうです。デイサービスの方たちも、お孫さんが帰ってきているから祖母がニコニコしていると言ってくれます。「可愛いなぁ。可愛いなぁ。」と今度は私が祖母に言います。祖母からは「ありがとう。」とだけは返事があります。これが聞きたくて何度も言ってしまいます。
かかりつけ医の先生、訪問看護師のみなさん、デイサービス職員のみなさん本当にありがとうございます。普段私が力になれない分、祖父や母の支えになり祖母を家で介護ができるようにお手伝いしていただき本当に感謝しかありません。もっともっと長い間、祖母の「ありがとう。」が聞きたいので、これからも私たちを支えてくださいますようどうぞよろしくお願いします。
福島 悠楽(14歳)千葉県
ぼくの母は、ぼくが2歳の時、乳がんが見つかった。リンパ節転移があり、すぐに抗がん剤治療が始まった。母は、ぼくの成長を見なければと思い、生きる為に気持ちを奮い立たせた。「あなたがいたからがんばれた。あなたは命の恩人。」と、母は時々ぼくに言う。
そんな母も、病院の先生の前で、「本当に治るんでしょうか。」と泣いたことがあったそうだ。先生はすぐに緩和ケアの先生につないでくれて、たくさんの先生や看護師の方に助けられながら母は治療を続けた。
「抗がん剤や手術の痛みはどうということはない。体の痛みよりあなたの成長を見届けられないかもしれないという心の痛みのほうがずっとずっと大きかった。」と、母は言った。
抗がん剤治療や手術が終わっても再発の不安は続き、がん患者の心のつらさを助ける精神
ぼくも、小学5年生の時に、右ひじの骨折で手術をした。初めての手術、ぼくは心臓がはり裂けてしまいそうになった。この極度な緊張で心拍数が150に達した。それと同時に大きな「孤独」が押しよせてきた。「これからぼくはどうなってしまうのか......」。ぼくの中には「不安」と「孤独」しかなかった。母は、これの何倍、何百倍、何千倍の「不安」と闘ってきた。だが、時には心が折れてしまいそうな時もあった。そんな時には、様々な医療関係者の方々に支えられながら、巨大な「不安」や「がん」に打ち勝ったのだ。
1度目の手術、整形外科の先生に「手術どうだった?」と聞かれて、母は「手術の間ずっと孤独だったそうです。」と答えた。
初めての手術で、「機械の音は聞こえるけど、ずっと孤独だった。」と母に話していたのだ。
その後、もう一度ひじに入れたピンを抜く手術が行われた。その時、先生は、手術台の上に横になっていたぼくに、その時にとてもはやっていたアニメの話をしてくれたり、看護師さんが手術の緊張をすこしも感じさせないようにいろいろな話をしてくれた。ぼくの「孤独だった」という言葉を覚えていてくれたことがわかり「孤独」なんてキレイサッパリふきとんでしまった。
手術が終わり、手術の傷が治ったころにはすっかり腕が伸びなくなった。ぼくは、腕が元通りになるかとても心配になった。リハビリを始め、ぼくの腕を担当してくれたお兄さんはとても明るく、いつも楽しい話をしてくれて、リハビリが終了になった時は、さみしくて泣いてしまいそうになった。
ぼくの右ひじもまっすぐ伸びるようになり今は、剣道やピアノも問題なくできるようになった。
ぼくは、様々な人に助けられて生きている。
あれは、ぼくが6歳の時。
母と一緒に箱根に行った時のことだった。
テンションが上がってしまったぼくは、まだ幼い体でゴツゴツとした傾斜を全力で走ってしまったのだ。
次の瞬間、ぼくは、頭から地面に転んでしまった。うろ覚えの記憶だが、目の前がまっ赤に染まるほど流血し、手や服、地面にまで血がしたたる、もはやドラマに出てくる殺人現場のようになったのだ。
流血しているぼくを見つけてくれた、庭を整備していた人がぼくの頭にバンダナを巻いてくれた。その後、ぼくを受付まで運んでくださり、受付にいたお兄さんがぼくを病院まで車で送ってくれた。病院でホッチキスをする時も、ぼくが怖がらないように、看護師さんがぬいぐるみなどでぼくの気をそらしてくれた。ホッチキスを取り除く時も「痛かったら泣いていいんだよ。」などの優しい言葉をかけていただいた。
母は乳がんが見つかった時、ぼくのランドセル姿を見るのが目標、中学生になった姿を見ることは夢のまた夢で、想像することもできなかったそうだ。
ぼくは中学生になり、母は夢のまた夢を
母の病気もぼくの骨折も、大きな支えになったのは、病院の先生や看護師さんにかけてもらった「言葉」だ。
薬は病気に効果があるかもしれない。だが、どんな万能薬でも、心の傷までは癒やせない。心の傷に効く薬はただ一つ、「言葉」だ。
母もぼくも薬では治せない心の苦しみを、たくさんの「言葉」で治してもらった。
ぼくも、「言葉」で治してもらったように、苦しんでいる人がいたら、心に寄りそい、優しい「言葉」をかけられる人になりたい。
土井 倫太郎(15歳)愛媛県
色とりどりのイルミネーションやクリスマスソングが街中にあふれている12月23日。肺がんで闘病中だった叔母が静かに息を引き取りました。明るくておしゃべり好きで、ちょっぴりお節介でよく笑う叔母でした。
「なってしまったものはしょうがない。頑張って治してくるわ。」
と笑顔で入院した叔母。葬儀場に帰ってきた叔母は僕の知っている叔母ではありませんでした。頬は小さく痩せこけ、肌は黒ずみ、うっすらと残る眉間の
押しつぶされそうな重い空気の中、母が口を開きました。
「大丈夫! みんなでおばちゃんを元に戻してあげよう。」
僕の母は看護師です。母は叔母が亡くなってすぐに病院へ駆け付け、エンゼルケアを自分たちでさせてほしいと病院と葬儀場の人に交渉していました。エンゼルケアとは人が亡くなった時に行う死後処置のことです。遺体を清めたり、化粧を施したりして故人が少しでも生前に近い姿になれるように資格を持った人の手によって行われます。
母が叔母の体をきれいに清め、みんなで選んだ薄いピンクの着物を着せました。
「さあ! お化粧するよ!」
昔の叔母の写真を何枚も何枚も見比べながらみんなで少しずつ化粧しました。
母は叔母の持っていた化粧品で化粧することにこだわりました。お気に入りの化粧品でいつもの叔母にしてあげたかったそうです。
まず顔全体をきれいに
出来上がった叔母は声を掛けると目を覚ましそうで
「アイス食べる? お野菜持ってお帰り。」
と今にも喋りだしそうでした。あまりに生前の叔母そのものでみんなで大笑いしてみんなで泣きました。なんだか悲しいのかうれしいのか分からないぐちゃぐちゃの感情だったけれど、胸のつかえが取れたような気がしました。
そしてお通夜のクリスマスイブ。叔母にサンタクロースの帽子をそっとかぶせ、叔母を囲んでみんなでケーキを食べました。何種類かケーキを買っていたので誰がどのケーキを食べるかもめたり、まだ小さいいとこがジュースをひっくり返したり。それはそれは
葬儀が全て滞りなく終わって片付けをしている時に母がポツリと言いました。
「私たち看護師は治療に関してはドクターの指示の下動くので治療の決定権はなく病気そのものを治すことはできない。でもおこがましいけど患者さん本人だけでなく、それをとりまく家族さんたちも少しでも楽にさせてあげられたらうれしいでしょ。それができるのが看護師だと思ってる。」
と。僕はいい看護師というのは注射が上手いとか処置が早いとかそういうことが大切だと思っていました。もちろんそれも大事なことだけど、今回の体験で心に寄り添う看護が一番大切だということに気が付きました。そして自分の仕事に自信と誇りを持ち「この仕事が好きだ。」と胸を張って言える母をかっこいいと思いました。
僕は心室中隔欠損症という先天性の心臓病を持っています。今も検査は欠かせないし、入院することもあってその度にたくさんの看護師さんと関わってきました。僕の記憶に残る看護師さんはみんな笑顔で優しく、不安な僕の気持ちに寄り添ってくれていました。当たり前のことのように思っていたけど、母の一言からたくさんの看護師さんの思いに触れ、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
僕は母の仕事が看護師で嫌だなと思ったことが何度もありました。時間通りに帰ってこないことも多いし、休みのはずだった日に急に呼ばれて出勤することもありました。晩ご飯にお惣菜やお弁当が続く日もあったし、家に仕事を持ち帰っていてゆっくり会話できない日もありました。
もし看護師さんのお母さんの帰りを寂しく待っている子がいるなら伝えてあげたいです。「キミのお母さんの仕事は素晴らしいものなんだよ。キミのお母さんはすごい人だよ。」と。
母は今日もたくさんの患者さんに笑顔を届けに行っています。長い夏休み、仕方なくおいしいご飯でも作っといてやるとするかな。
山崎 恵里菜(12歳)埼玉県
私は秀明学園に通う、中学1年生の女子です。まだ骨折さえ一度も経験したことがなく、注射は大嫌いです。しかしそんな私にも、生命と真剣に向き合った経験があります。
初めて生命について深く考えたのは、8歳の頃でした。当時はまだ、両親と3人でアメリカで暮らしていました。そうしたある日、父は急に足の親指に異変を感じたそうです。医者は当初正常と見なし、私も変わらず学校生活に励んでいました。ところがある日、母はいきなり真剣な顔で私を呼びだしました。その時の言葉は、今でも忘れません。「お父さん、がんになっちゃったんだ」。それから毎日、父の
ある日、私と母は病院に泊まっていました。すると急に耳鳴りがして、視界がぼやけてきました。周りの騒音が倍以上大きく聞こえ、気づいたら泣きじゃくっていたのです。母はひたすら「大丈夫だよ、大丈夫だよ。」と励まし続けてくれました。その翌朝、1月15日の火曜日、パパは天国へと旅立ちました。まだ幼かった私は、病院でも、家でも、お葬式でも泣きませんでした。「まだお母さんがいる」と、そう思ってばかりいました。
それからすぐ、母と私は日本に帰国しました。しかし、その穏やかな生活も長続きはしませんでした。インターナショナルスクールに落ち着き、日本の生活にも徐々に慣れてきた頃、母のがんが発覚したのです。しかも
「来年は一緒に行こうね。」
そんな母の言葉を、私は信じていました。
数カ月ほど経ち、母は入院しました。残された私は祖父母の家に送られ、毎週1回お見舞いに通いました。しかし会いに行く度に母の体は弱り、父と同じようにクマができ、細くなっていくのが分かりました。
「大好きだよ、大好きだよ。」
母はそう言い続けながら、骨まで見える腕で私を抱きしめてくれました。ついそんな母を見ていると、「こんなのお母さんじゃない」と心の中で否定してしまう自分がいました。
2021年の12月13日、ママも天に召されました。急いで病院に向かうタクシーの中で必死に打った最後の感謝のメッセージは、今でも覚えています。でも結局メッセージは届かないまま、母は逝ってしまいました。病院に着いた途端、私は号泣しました。この世で最も一番愛していた父と母がいなくなった世界は、とても惨めで狭苦しい世界になってしまいました。一人きりでこの先の道を進むのは、無理だと確信したのです。
しかし、その絶望の日々はある一冊の本との出会いによって照らされました。辛い気持ちにそっと寄り添う「『死にたい』『消えたい』と思ったことがあるあなたへ」という本です。数ある中で最も心に響いたのは『過去にも未来にも心を飛ばさず、今この瞬間に心を留め置くことで誰でも瞬時に幸せになれる』という言葉です。苦しい時は大体過去か未来のことを考えており、「今この瞬間」だけに執着すると落ち着いて楽になれる、という意味だと解釈しました。傷つき、疲れてどうしようもなくなった時、意識を自分の呼吸だけに向けると、あっという間に心が軽くなるのを感じました。
人間は誰でも、必ずいつか死が訪れます。私たちは常に死と隣り合わせで生きており、急に亡くなってしまう未来なんて怖いくらいにどこにでもあるのです。そう考えると、生命は本当に貴重で大切にしなければならないものなのだと実感します。でもそんな限りある世の中でも、生きている間にできることは無数にあるはずです。何ができるか、どうしたら人の役に立てるか、私はずっと考えていました。そして決めたのです。精神科医になって、将来を背負う子どもたちの生命を救ってみせると。まだ実現化する日が遠いとしても、いつかは必ず夢を果たす。そう誓いました。
私にも生命を大切に考えられない日など、数えきれないほどあります。「一晩乗り越えるだけで精一杯、私に居場所なんてあるのだろうか」。そう考えているといつの間にか抜け穴を見失ってしまい、「病」という空間の中でさまよってしまう自分がいます。そんな不平等だと感じる世界の中でも、私は父と母の遺骨を封じたペンダントを胸に抱きながら、今日までを生きてきました。いつかは必ず幸せがやってくる、そう信じて私はいま、生命を見つめながら未来を歩んでいます。
和田 つばさ(37歳)埼玉県
まもなく1歳になる我が家のわんぱく君は、目下のところ、伝い歩きと、テレビのリモコンを触るのに夢中だ。産まれてからというもの、彼は自分が住む世界のあらゆるものを見て、触り、聴き、大いに泣いて笑って、毎日を全力で駆け抜けてきた。
息子が産まれてから、私の方はこれまで思いもしなかった多くのことを考えるようになった。とりわけ、「奇跡」について。奇跡とは一体何だろうか? それまでの私は、何かしら特別なことを成し遂げることが奇跡だと思っていた。例えば、アメリカン・ドリームを達成するだとか、難病を克服するだとか、ごく少数の人が経験すること。だが、それは正しくないことに、私は徐々に気づき始めている。自分がいる今この場所にあるもの一つ一つの意味について、立ち止まって考えてみると、そこには奇跡が存在するということを突如感じることがある。息子が産まれた日から今まで、私にはそう思える瞬間が
2022年、街路樹の葉が美しく色づいている頃、陣痛により私は夜明け前に入院した。出勤時刻になると担当の先生と看護師の方が、「頑張りましょう。」と挨拶に来てくれた。さらにその日は看護学校の実習日であるらしく、看護学生さんが私の担当として退院まで付き添ってくれることとなった(きっともう素敵な看護師になっているだろう)。
数時間が経ち、「とても順調に進んでいますよ。」と先生が言った。が、私には長く感じられ、内心では「まだぁ?」と思っていた。それでも、初産にしてはスムーズなようで、13時頃にいよいよ分娩室に通され、夫も呼ばれた。最後は吸引分娩になったものの、15時前に、身長49㎝の赤ん坊が世界に飛び出して産声を上げた。その時、私が感じたのは何よりも感謝だった。病院のスタッフさん、そして10カ月もの間頑張り抜き、命がけで産まれてきてくれた息子に。体を拭いた後、私の枕元にやって来た息子。彼の体は本当に暖かかった。それに加え、細部の印象が強く残っている。耳の周囲に大人と同じように毛が生えていたこと。産まれたてなのにくしゃみができたこと。外の世界に出てきたばかりだというのに怖がりもせず、気持ちよさそうに眠ってしまったこと。
翌日、新生児室に息子を迎えに行った。初めての授乳を終え、ゲップの仕方を教わって、太
入院4日目は初めての
無事に退院して自宅に帰ってからも、特に新生児期は
けれども、そんな日々の中で遭遇したのは、たくさんの奇跡だ。私の
それらの光景は、私には全て奇跡に思える。産まれて1年も経たない小さな命は、目を輝かせながら、毎日毎秒、自分の世界を広げている。身長70㎝の小さな赤ん坊が自らの生命を躍動させている姿を見る時、奇跡は日々のあらゆる瞬間に存在することを私は感じる。昔から