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令和2年(2020年)4月5日(日) / 南から北から / 日医ニュース

山里の記憶

 私は山が好きである。最近は通勤の途中に中高年登山者を電車内で見掛けることが多くなり、心が動かされる。
 終戦後、私の父は和歌山県と三重県の県境の山深い村で診療所を開業していた。その影響もあり、今でも山への憧れは心の中に深く住みついている。誕生から小学生までをそこで過ごした。半世紀以上前のことである。幼稚園も保育園もなく、小学校までの記憶は定かではないが、小学校に入ると比較的よく覚えている。
 診療所の前には未舗装の狭い県道があり、ボンネットバスが通っていた。父は初めの頃は徒歩と自転車で往診し、独楽(こま)ネズミのように働いていたようだ。山深い村は家々が散在しており、山を越えて往診に行くことが往々にあった。深夜の急患の往診の際には遠くの山裾に父の懐中電灯の灯りが見え隠れしていた記憶がある。
 その後、少し道路事情が良くなったので、父は単車で往診するようになった。往診の時、単車のタンクの上に乗っけてもらい(現在では違反であろう)患者さん宅まで一緒について行ったことがある。山の上の一軒家的な家が多く、山の麓に単車を止め、急勾配を山上まで登って行くのは子どもの足力では大変であったが、「よう来たのら」と患者さん宅で頂いた柘榴(ざくろ)の実の甘酸っぱさと、夏ミカンを砕いた上に砂糖をまぶした即席ジュースの味は記憶に鮮明に残っている。
 小学校での授業内容は全く記憶にないが、遊びに関してはよく覚えている。今のようなゲーム機器はなかったが、退屈という感覚はなかったと思う。学校では陣取りゲーム、ドッジボールなどで過ごし、家に帰ると近くの山里が待っていた。その他、木登りとか、木の枝、木の皮、枯葉で隠れ家を作ったりし、日が暮れるまで遊んでいた。
 夏になると、上級生を先頭に山を越え、谷沿いの細い道を通り、水遊びのできる谷川まで1時間ほどの道のりである。谷川の水は澄んでいて冷たく、唇が紫色になるまでの水遊びの後は、日の当たった岩場に寝ころび体を暖めた。
 自転車転落のエピソードもよく覚えている。当時は子ども自転車など山中で見たこともなかった。そこで好奇心の強い子ども達は大人の自転車を三角乗り(ネットで検索できます。今思うとかなり危険な行為です)していたのである。道路事情も良くない時代であったのでカーブを曲がりきれず3メートルほどの崖下に転落してしまった。落下時の記憶はないが、上から自転車が頭の上に落ちてきたことは覚えている。しばらくして自宅の布団の上で気が付いた。母の心配そうな顔が目の前にあった。
 夏休みは今と違って塾などなく、勉強した思い出はない。父の職業柄、旅行などの記憶もない。まだ伝染病が蔓延している時代で、気の小さい私はとても怖かった。診療所の待合室でうずくまっている上級生を、父が日本脳炎の疑いだと言っていた記憶がある。
 秋になると柿、山栗、椎の実、アケビが採れ、貴重なおやつであった。
 冬には、雪の降ることは稀であったが、何しろ山中で寒く、暖房はこたつ、まきストーブ、湯たんぽぐらいしかなかったと思う。通学途中の道沿いの小川にはツララができ、水辺の草木が凍って光り輝いていた。手の甲は霜焼けでひび割れており、服には青洟(あおばな)を拭いた照り返った袖があった。校舎は木造で隙間風があったが、ストーブのような暖房はなく寒かった。
 その山村には小学校6年までいたが、遊んでばかりで勉強する機会がないと心配したのか、親の都合か分からないが、海辺の町に引っ越した。そこでは中学校、高校まで約7年間過ごしたが、あまり鮮明な記憶がない。
 8年ほど前に、音信不通であった小学校時代の同級生から還暦同窓会の誘いがあり、山村近くの温泉宿に宿泊した際、訪れてみた。家はまばらで行き交う人もなく、当時の面影はなかったが、小学校、診療所は朽ちかけて残っていた。大人と子どもの視点の差と思われるが、記憶の中の景色とは違って全体的に狭小で、ミニチュアのような感じがした。数年後に、診療所は取り壊されたと人づてに聞いた。
 不思議と小学校までの記憶がより鮮明である。断片的な記憶であるが、子ども心にも当時としては情感の入った出来事であったのであろう。ゆったりとした時の流れの中で、田舎には色々の体験があった。純粋な喜び、悲しみ、驚き、恐怖体験などが情動の神経組織である扁桃体を介して海馬に強力なエピソード記憶をつくり、「思い出」を側頭葉に残してくれたと思っている。

(一部省略)

兵庫県 姫路市医師会報 No.400より

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