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令和2年(2020年)4月5日(日) / 南から北から / 日医ニュース

傷だらけの老爺

 昭和から平成に変わった最初の春、臨床研修を終えて大学病院へ戻りました。仕事にも慣れてきた頃に、90歳を超えた男性が入院してきました。転倒して歩けなくなり、かかりつけ医を受診したところ大腿骨近位部骨折と診断され、手術治療のために転院されてきたのです。
 受け持ちになった私は、オーベンと2人で病室を訪ねました。男性は体格がしっかりしていて、とても健康そうに見えました。驚くほど会話がしっかりしていて、耳もよく聞こえており、時に冗談も言われました。これまで大きな病気も指摘されていないとのことで、全身麻酔での手術は可能であろうと思われました。
 診察を始めたところで、男性から「背中には傷があります」と言われました。確認するため、固定している股関節を動かさないように少し横を向いてもらいました。すると肩甲骨の下方に、古いやけどのような大きな傷跡がありました。どうしたのか尋ねると、「これは満州事変の時に受けたものです」と言われました。
 「満州事変?!」。オーベンと顔を見合わせ、絶句してしまいました。私の中での満州事変は、歴史の授業で習った昔の出来事であって、その時代の当事者に出会うことがあるとは、頭の片隅にもなかったことです。「それは大変でしたね」と言う言葉しか出てきませんでした。
 歴史の感傷に浸っていると、また男性から「もう一つ、腰のところにも傷があります」と言われました。腰は見えそうにありませんので、私が足を持ち、側臥位(そくがい)をとる際に一緒に合わせて体を動かして確かめました。すると腰の中央に、縦に真っすぐ伸びる1本の傷がありました。長さは20センチメートルほどです。これは、どう見ても手術による傷跡です。話によると、20歳の頃に腰椎分離症という病気で動けなくなり、手術を受けたとのことでした。もう70年以上も前の話になります。
 どこの病院に入院したのかを聞いたところ、「福岡で神中(じんなか)という医者にやってもらいました」と言われました。この話にも、私たちは仰天してしまいました。本当にひっくり返りそうになりました。
 神中正一(せいいち)先生は、日本の整形外科の歴史においては神様のような人で、整形外科医でこの名前を知らない人はいないはずです。1926年に九州大学の教授に就任され、近代整形外科の基礎をつくり上げられました。人材の育成にも力を注がれ、膨大な業績から作成された教科書は、現在でも改訂が重ねられていて、バイブルと称されています。その神中先生と同じ時間を共有した人が、私の目の前にいるのです。
 雲上人(うんじょうびと)の手術の傷ですから、どうしても凝視してしまいます。私は男性の足を持ちながら、「すいません、もう少しいいですか」と言って何度も見せてもらいました。外科医にとって、手術の傷というのは何とも不思議な感覚になるもので、大げさに言えば傷を通じて手術の様子を想像し、術者と話をしているような気持ちになるのです。
 この話が医局に伝わると、教授回診の際に、傷を見せてもらおうとする医局員がどんどん病室に集まって来ました。男性は、その都度横を向くことになるのですが、文句も言わず「私を手術したのは、そんなに偉い人なのかね?」と言っていました。何の変哲もない傷なのですが、それを見た医局員は「ヘ~」とか「なるほどな~」と言って、なぜかとても感心するのです。
 男性は諸検査をパスし、手術も無事に終了しました。実はこの男性は、私が大学病院で最初に執刀した患者になります。手術の時に分かったのですが、男性の大腿部には銃創の跡があって、レントゲン写真でも弾の破片が筋肉内に残っていました。今回の手術で、骨折を止めた固定金属もレントゲン写真には映ります。フィルムには、その人の人生が刻まれていきます。男性には、私が四つ目の大きな傷をつけたことになりました。
 術後の医局カンファレンスでは、私が経過報告をしました。講師の先生は医局員に向かって、「この人は、福岡の神中と愛知の林の2人が手術をした、唯一の人である」と言いました。赤面しなければ思い出せない話になっています。

愛知県 名古屋医報 第1454号より

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