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令和3年(2021年)2月5日(金) / 南から北から / 日医ニュース

サインはV

 最近の世の中の急激な変化には、ついていけないことが多々あります。
 今まで家庭の料理は女性が主にするものと思っていました。ある婦人雑誌に頼まれて書いた文中に「家内」と書いたところ、「これは訂正してください」と言われました。やむなく「奥方」と書いたところ、「これもダメです」と言われました。「今の時代、女性は奥に居るものではなく、内に居るものでもありません」と言われました。
 わが家にも時代の波が押し寄せてきて、とうとう自分も台所に立つ羽目になりました。要するに診察用の白衣が、料理人の白衣に代わらざるを得なかったという事です。理由は、奥方が(いや愛妻と書けば文句ないでしょう)夕方の診療が忙しくなると、夕食の準備に手が回らなくなるためです。
 やむなく台所に入ったものの、まず電気釜でご飯を炊くのですが、何合炊いたらいいのか分からないので、診療中の愛妻に聞きに行くのですが、患者さんの前で「何合炊きます?」とも聞けずに、そこでサインを決めました。
 指二本上向きにVサインを出した場合は2合、下向きのVサインの場合は2合半と決め、ブロックサインで何とか切り抜けました。
 次にご飯を炊きますが、最近の電気釜は水の量も炊き具合も簡単に設定できるので大変助かります。みそ汁作りは、だしパックで味を取り、大根を切って入れましたが、太く切りすぎて駄目出しが出ました。ロースターで鯵(あじ)の干物を焼くのですが、他に気を取られて焼き過ぎ、黒焦げのパリパリになり、台所デビューはしたものの多難なスタートでした。
 ある時、昼食の準備に時間が無いので、残りのご飯にみそ汁とかつお節を入れておじやを作りました。我ながらいいリゾットができたと思っていましたが、愛妻に開口一番「何、このワンチャンご飯! 昔うちの犬が食べていたご飯だわ」と言われ、かなり傷つきました。「包丁一本晒(さらし)に巻いて」を口ずさみながら、「見ておれ、そのうち一流の料理人になってやる」と新たな決意が生まれました。何事も基本が大事、まず料理の基本は何なのか築地にある料亭の出版する料理本を熟読しました。大事なのは調味料ですが、素材に浸み込む順番は「さしすせそ」砂糖、塩、酢、醤油、みその順であることを学びました。
 素材の使い方にも気を付けること、例えば大根一本でも首元は筋が多く、真ん中は柔らかく風呂吹き大根などの煮物に、尻尾の部分は辛みと水分が多いので大根おろしに使うということです。素材の色の取り合わせは料理をおいしく見せるので、庭にある南天や紅葉、柿の葉を使い、笹の葉を引いた上に料理を乗せるなどの工夫もしてみました。
 日本料理はだしが大事ですが、最近は「白だし」という便利なだしの素をスーパーで売っています。ある時ハマグリを頂きどうしようか考えました。今回は、はまぐりのお吸い物を作ってみようと思い、まず塩水で砂出しをして、切り目を入れた昆布をだしにして、塩、薄口醤油、更に日本酒を少し加えてみました。恐る恐る食卓に出してみたところ、「あなた、このはま吸いグーよ」と初めて褒められ、愛妻の巧みな術中に更にはまっていきました。
 懐石料理を外で食べる時は、この料理のために、素材の仕入れに始まり、何カ月、何日、何時間掛かっているのか料理人の苦労を考え感謝して頂いています。
 ふぐ料理に付いてくる黒い皮の部分を、私達は何気なく食べていますが、「これは何ですか?」と尋ねてみました。「これはふぐの皮の部分で遠江(とおとうみ)と言うんですよ。ふぐの身に接する部分という事から、愛知県東部の三河から遠い静岡県西部の遠江ということでこの名前が付いたそうです」と説明してくれました。昔の料理人は粋な名前を付けたと感心しました。
 日本には四季があり、さまざまな旬の食材に恵まれています。これらを無駄なく調理に生かし、世界に類を見ない食文化を創り出しています。日本料理が世界遺産になったのは当然だと思います。
 昔は愛妻も料理が全然駄目で、4月になると一つ覚えのタケノコご飯が毎日のように続きます。おかずも何時間も掛かって一品料理でしたので、私は当時これを「愛情溢れる一品料理」と名付けていました。新入医局員時代でしたので、藪(やぶ)にもならないタケノコかと諦めて毎日食べていました。
 私の尊敬する料理人に「料理の基本は何ですか?」と聞いてみました。「食べてもらう人への愛情です」と言われました。
 「愛情溢れる一品料理」から50年、今は完全に逆転し、台所で黙々と料理を楽しむ毎日になりました。
 ちなみに、今日のVサインは下向きでした。

東京都 杉並区医師会雑誌 第43号より

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