2024年の10月中旬、彗星(すいせい)の画像がテレビニュースで流れていた。奇麗な尾を引く姿が数日にわたって見えると言う。
日課の夜の散歩で空を見ながら歩いた。街外れの緩い斜面の芝原にも寄ってもみた。でも、私の住む街からはその姿は一度も見えなかった。大概の星は見えるのに、ほうき星がいる辺りに雲があったりしてだめだった。似たようなことを考えた人々がポツリポツリと芝原に集まってきては、しばらくブラブラして皆諦めて帰るのだった。星空の下、緩い斜面の芝地をゆったり歩く人々。ほの暗がりの姿から察するに、ご年配の夫婦が多いようだ。平穏な秋の宵である。
夜の散歩を日課にしているものの、夜空に見入ることはあまりない。知っている星座も二つ三つだ。PCとTVの生活をしていると、現代の方が昔より情報が多いと思いがちだが、古の人は自然と向き合いながら、相当の質と量の情報に曝(さら)されていたはずだ。そのスケール、深さ、緻密(ちみつ)さ、自然や宇宙の生情報に人間の作った情報がかなうはずはない。
古の人々は毎夜焚火を囲みながら、星や月を眺め、星座を描いてみたり、その動きを分析したりした。また、物語を作って皆で語り合ったりしながら、子どもの頃から宇宙やまだ見ぬ世界を思い描いたに違いない。長い旅路では、星が道しるべとなっただろう。大昔に太平洋を渡り歩いて島々に渡った人々、はるばるアジアの東端までたどり着いた祖先のことを想うと、畏敬(いけい)の念を抱かずにはいられない。
10月の夜散歩の時間だと、頭上に白鳥座が見える。その方角の約300光年の所にケプラー1649という赤色矮星(せきしょくわいせい)があるのだそうだ。赤色矮星というのは太陽よりも小さくて元気がないので、惑星が近くを回ってもやけどをしないのだという。
赤色矮星ケプラー1649の周りを回っている惑星の中のケプラー1649cというのが地球に似ていて、誰かが住んでいるのではないかと噂になっている。
地球に似ているとは言え、その惑星は、主星との距離が近いため、潮汐(ちょうせき)ロックとかいう仕組みのせいで常に同じ面を主星に向けているという。つまり、夜と昼の入れ替わりが無いのだそうだ。主星に面した方は常に昼、反対側はずっと夜。生活しやすいのは昼側と夜側の移行帯周辺だろうと専門家達は予想している。まあ、確かにずっと夜で冷えている場所や、日照りばかりの場所より、その中間が良さそうなのは勉強しなくても何となく分かる。
はるか遠くの星に誰かが住んでいるかも知れないなどと言われると、どんな住人かと思わずにはいられない。夜と昼が入れ替わらないのだから、その星では明日という概念は無さそうである。昨日や今日、朝食や夕食に相当する言葉もあるのか怪しい。その星の住人がもし知的なら、生活習慣はもちろん、世界観、物事の概念が大きく異なっているに違いない。
我々は、地球という星に住みながら、ちょっと宗教や歴史が違うと言って、戦争をしている。表向きには宗教や歴史などが大義名分に使われるが、本当は誰かのちっぽけな利害や気まぐれがきっかけかも知れない。宮沢賢治さんは、「......北に喧嘩(けんか)や訴訟があればつまらないからやめろと言い......」と言っている。そう、「つまらない」。この原稿が出る頃には戦争が終わっていることを切に願う。戦争では、戦地の人はもちろん、戦地以外の人々も胸を痛めている。
ケプラー1649cにも戦争はあるのだろうか。ケプラー1649cに深い悲しみや、悩みに苦しむ人々がいたら、どんな言葉を掛ければ良いだろう......。朝の来ない夜は......と言いたくても、ケプラー1649cに朝は無いのだ。