医師のみなさまへ

2019年5月1日

第1回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
一般の部【日本医師会賞】

「A先生の『ここだけの話』」

渡辺 惠子(58)徳島県

 今から17年前。父が66歳の時に脳腫瘍が見つかった。父はその6年前に脳出血で倒れ、何度も危機を乗り越えながら、ようやく平穏な日常が戻ってきた矢先のことだった。

 総合病院で緊急手術をしたのだが、患部を取り除いても、月単位でまた別の場所に腫瘍ができ、父は1年の間に4回もメスを入れた。

 その度に父の身体機能や意識レベルが衰え、最後の手術の後は、排泄はいせつの感覚も麻痺まひしてしまい、母や私のこともわからないようだった。

 父は日頃から、自分が認知症になったり、意識障害に陥ったら、自分の哀れな姿を他人には絶対に見せないでほしいと言っていた。私たちは父の意思を尊重してあげようと、友人、知人には一切知らせていなかった。

 母は病室に折りたたみの簡易ベッドを持ち込み、毎日泊まり込んでいた。そして何かに取りかれたように一日中父のそばに張り付き、時々ドアを開けては人の気配をうかがっている母の行為は、周りから見ても異常だった。私は正直言って、父よりも母の方が心配だった。

 主治医のA先生は、頻繁に病室を訪ねてくれた。穏やかで、ちょっと間延びした口調で、「どうですか~? 変わりないですか~?」って、声をかけながら入ってくる。今から思えばA先生のその言葉は、父だけではなく、私たちにも向けられていたのかも知れない。母は回診の度に、「絶対に治りますよね?」って、すがるような目でA先生を問い詰めた。A先生から父の病状や余命をすべて知らされていた私は、いたたまれない気持ちになった。A先生は母から目をらさず、優しい眼差まなざしで大きくうなずいてくれた。あの時の母に、父の身体に忍び寄る現実を冷静に受け止められるとは、到底思えなかった。私はA先生の思いやりに、いつも救われていた。

 そしてあの出来事は、父が他界する1か月ほど前だったろうか。私たちはほんの15分、売店に行くために病室を空けた。買い物袋をぶら下げて部屋のドアを開けた時、私たちは呆然ぼうぜんと立ちすくんだ。中では父の無二の親友だった寛吉さんが、父の両頬をでながら、何か語りかけていた。

 すると次の瞬間、父が突然「グワー」っと、うなり声を上げた。普段はうつろな目で、天井を見上げているだけだった父が、ベッドから起き上がろうとする仕草しぐさを見せた。そして顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙が流れ出した。そして寛吉さんが父の両手を握り締め、「友ちゃん、会えてよかった」と言った時、父は確かに首を縦に振った。その時の父は、喜びの感情を全身で表現しているように思えた。

 午後の回診にA先生が現れた時、私はさっきの光景の一部始終を打ち明けた。

 「夫との約束を、守ってあげられなかった」母は顔を覆い、その場に泣き崩れてしまった。3人の間に束の間の沈黙が流れた。A先生は、「後から、改めて伺います」と言い残して、部屋を出て行った。

 それから5時間ほどった、夜の8時過ぎ、ドアをノックする音がした。母と私は顔を見合わせ、恐る恐るドアを開けると、私服姿のA先生が立っていた。

 「今、勤務が終わって、帰りに寄りました」A先生は椅子に座って、静かに語り始めた。

 「僕の父は、住職でしてね。僕が医学部を卒業した時に、父に言われた言葉があるんです。『病巣を発見するだけの人間ロボットになるなよ。常に患者と家族の心に寄り添え』って。西洋医学を志す僕としては、父のうんちくを聞くのが鬱陶うっとうしい時期もありました。でも、今では僕の、貴重な羅針盤になっています」

 「で、先ほどのお父様の件なのですが...。」

 A先生は、急に姿勢を正した。

 「これは、『ここだけの話』ですが...、お父様が元気な時に言われた言葉は、真実です。そして今日のお父様の姿も真実です。人間の気持ちは、日々移り変わっていきます。お父様は、そのお友だちに会いたかったのです。お父様は、きっとうれしかったと思いますよ」

 「でも、夫からあれだけ言われてたのに...。」また涙を浮かべた母に、A先生は微笑ほほえんだ。「遺言書と同じですよ。遺言書は日付の一番新しいものが有効です。だから今日のお父様のメッセージの方が有効です」

 その言葉に、母の顔から笑みがこぼれた。

 「今の夫に家族ができることって何ですか」母の質問に、A先生は神妙な顔でこう答えた。

 「お父様に、ご家族の幸せそうな笑顔を見せてあげてください。意識が混濁している状態でも、相手の表情だけはわかるんですよ」

 A先生は帰り際に、私たちに念を押した。

 「今の話、医学では証明されてないですから、絶対に『ここだけの話』ですからね」って。

 間もなく父は、家族の笑顔をリュックにいっぱい詰めて、天国に旅立っていった。

 あれから長い歳月が経ったが、今でも白衣を脱いで駆けつけてくれたA先生を思い出す。

 今後の自分の人生においても、是非ぜひ「ここだけの話」を参考にさせてもらいたいと思う。

受賞作品を読んで

意識が混濁したときのために、あらかじめさまざまなことを決めておくことは現代社会の大きな潮流だと思います。
しかしアーノルド・ミンデルの『昏睡状態の人と対話する』という本にもあるように、発語できない人でも感情や意志は持っています。こういう医師が増え、末期こそ患者の心に寄り添う医療が実現してほしいですね。
それにしても、私服に着替えてきたのはすごいですし、遺言書と同じで「日付の一番新しいもの(感情や意志)が有効です」とはありがたい言葉です。多くの方々に読んでほしいエッセーですね。

(玄侑 宗久)

第1回 受賞作品

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