そもそもそんなものは無いのかも知れないが、「テレビ爪」という言葉をご存知の方はいるだろうか? テレビの画面のように横長の形をした爪のことを言うのだが、もしかしたら一般的な言葉ではないのかも知れない。本で読んだか、あるいは誰かがそう言っていたのか、いずれにせよどう見ても格好の良い形じゃないのがテレビ爪だ。
私の爪はこの「テレビ爪」で、遣伝的には母方からのものである。父の爪はさほど美しくはないが、スッとした縦長で繊細な眼科手術に適していそうな爪であった。
子どもの頃から私はこの爪が大嫌いで、学生時代は背が低いことに加え二大コンプレックスの一つだった。特に親指が嫌で、高校生の時に少しでも縦長にならないものかと、爪半月が露出するまでカッターナイフで根本を切った揚げ句、大出血して酷く叱られた記憶がある。そうまでするほど自分にとっては重要な問題だったのである。全くつまらない馬鹿馬鹿しい悩みと思われるだろうが、コンプレックスとはそういうものなのではないか。
大学に入るとますます自分の指先を気にするようになり、何かを手渡しする時など、相手になるべく爪が見えないように不自然な持ち方をしていた。卒後眼科に入局してもそのコンプレックスは消えず、手術している先輩の美しい指先をうらやましく思っていた。
当時の眼科学教室の主任教授は斜視、弱視、小児眼科学の第一人者であった丸尾敏夫先生で、丸尾先生ともう一人、やはり斜視、弱視、眼瞼形成分野でリーダーシップを取っていた久保田伸枝教授と共に、わが医局はこの二大教授で名をはせていた。入局同期生は6名だったが、私以外の同期生は1年目から手術をさせてもらっていた。2年目を終える頃には白内障、そして簡単な眼瞼手術や斜視手術を、途中交代することなくできるようになっていた。
ところが私は全く手術をさせてもらえなかった。私のオーベンは医局長であったが、外来検査と入院患者の管理、そして医局の雑用を言いつかる毎日で、手術室はいつも助手か器械出し。助手の件数だけは誰にも負けなかったが、執刀医としての件数は既に後輩に追い抜かれていた。同期生が白内障手術を30例、40例と経験している時に、私は3年目で10例にも満たなかった。
このままでは絶対一人でやっていけないな、と不安と焦燥が募る毎日を過ごしていたそんなある日、久しぶりに久保田教授の助手につくことになった。全麻下での眼瞼下垂手術であった。助手だけは誰にも負けないつもりだが、やはり少し緊張した。久保田教授の手術は無駄が一つも無く、とにかく速い。その日もいつもと同じように正確な深さと長さで皮膚切開をし、眼輪筋を分けて瞼板と眼瞼挙筋腱付着部を露出していく。がその時、サクサク動く手が突然止まり、私を見た。何かミスしたか?と息をのんだ。
「真、アンタの爪、変な形だよね」
突然何を仰る、よりによって一番気にしているそこですか?
「え? あ......はい、変なんです......」
「フフフ、ほら見てごらん」と教授は自分の手を私に向けた。
「あたしと一緒だね。変な形。嫌だよねコレ」
何と教授もテレビ爪。どうして気が付かなかったのだろう。言葉が出なかった。
「でも真、アンタはきっとオペ上手くなるよ。この形の人はみんな上手なんだから、あたしみたいにさ、アハハ」
そう言ってまたサクサク手術を再開した。魔法をかけられたようだった。ずーっと嫌いだった自分の指先が、何か特別なものに思え、少しだけ将来の不安が消えた。
その久保田先生が90歳で逝去された。この爪はもちろん母からもらったものであるが、私は久保田先生の爪を引き継いでいると勝手に思っている。あの日の久保田先生の歳をとうに超えているが、これからも精進して8Kテレビ並みのテレビ爪を目指し、師匠の域に少しでも近付きたいと思う。自分の指先を見るたびに久保田先生を思い出し、いまだ解けない魔法をかけて頂いたことに感謝している。
(一部省略)
秋田県 大北医報 NO.308より


