閉じる

令和6年(2024年)2月5日(月) / 南から北から / 日医ニュース

12年前の自分

 年女ということで新春随想のご依頼があり、はて前回の卯年には何をしていたかしらと数えてみたところ、東日本大震災の年だったと気が付いた。私は宮城県の出身で、大学入学前までを仙台で過ごした。あれから12年経ったかと故郷に思いを馳せた。
 震災当時、私は札幌医大の4年生だった。両親は無事だったが、東松島市に住んでいた祖父母は車ごと津波にのまれて亡くなった。訃報を聞いた時、はた目に私がどんな状態だったのか分からないが、友人達が急きょ、私の自宅に集まって食事の世話をしてくれた。「両親は生きているし大丈夫」と言う私に、皆「大丈夫じゃない、平気じゃない」と言ってくれたのを今でも覚えている。
 4月からは5年生に進級して臨床実習が始まった。1~2週ごとにさまざまな診療科をローテートするわけだが、必ず先生達からあいさつ代わりに部活と出身校を聞かれる。宮城出身と分かると毎回セットのように「地震(津波)、大丈夫だった?」と聞かれる。ほぼ初対面の先生に「祖父母が津波で亡くなって......」と話すのはその都度空気を重くしそうで、またこの質問が来た、と思いつつ「津波は来たけど両親は無事だったので大丈夫です」と答えていた。
 救急科を回っている時、飲み会の場だったと思うのだが、隣に座った指導医からやはり部活と出身校を聞かれた。いつもどおり仙台出身と答えた私に、その先生は「大丈夫だった?」とは聞かず、ただ一言「大変だったね」と言った。震災直後、DMATとして岩手県へ行った先生だった。私は予想外の返答に驚いて、いや両親は無事だったし父の職場も再開したし大丈夫、と返したのだが、先生は重ねて「それでも大変だったね」と言った。
 私はこの時初めて、祖父母が亡くなったことを大学の先生に打ち明けることができた。「大丈夫じゃないじゃん!」と言われて、ああ私ちょっと大丈夫じゃなかったんだ、この先生は大きく損なわれた東北を見たのだ、と思った。
 その後、その先生を追って救急医療の道へ......となれば話としては美しいのだが、そうはならずに母校の泌尿器科に入局し、医師10年目を数えた。忙しい診療の中、安定している患者さん達はさっと診てしまいがちだが、「本当に大丈夫? 実は困ってない?」と聞き返す。がん治療中のさまざまな副作用が出た患者さんを診る時、「大変だったね」と声を掛ける。その心掛けを思い出すたび、本当は大丈夫じゃなかった12年前の自分が、過去から今の私を見ているような気がする。

北海道 北海道医報 第1252号より

戻る

シェア

ページトップへ

閉じる