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令和3年(2021年)5月20日(木) / 日医ニュース

デジタル技術と医療のかたち~済生会熊本病院の取り組み~

勤務医のページ

 新型コロナウイルス感染症の拡大は、私達の社会が(そのことを知りながら)長らく放置してきた問題を次々と浮き彫りにした。その最たるものがデジタル化の遅れであり、医療もまた例外ではない。9月に新設予定のデジタル庁に期待はするが、組織や運営をそのままにして、戦略なきデジタルトランスフォーメーションを進めるとすれば、何の成果もないだろう。
 そもそもわが国の文化は、デジタル化と相性が悪い。デジタルの語源はラテン語で指を意味する「digitus」だが、指折り数え得る整数値で、コンピューター科学では0と1である。つまるところデジタル化の真髄は、徹底的な数値化であり可視化だ。和を過剰に重んじ、必要な議論を避け、曖昧(あいまい)な空気の中でも「分かり合える」という幻想を抱き続けてきたわが国にとって、デジタル社会の実現には国民のマインドセット変更が必要だ。
 残念ながら私達は、そう簡単に分かり合えたりはしない。私達の認知は限定合理的であり、しばしば文脈を読み違える。そうした人間の脆弱(ぜいじゃく)性、ある意味の人間らしさに由来する数々のコミュニケーション・エラーは、医療事故の温床となってきた。
 2013年秋、私達は公的医療機関としては初めてJCI(国際病院機能評価)の認証を取得したが、そのプロセスは彼我(ひが)の思考過程の差異について戸惑いの連続だった。サーベイは当然英語で行われたが、JCI審査の公用語は徹頭徹尾「数字」であったと言って良い。
 私達が分かり合えない存在であることを前提に、医療の質を測定し、数値として客観的に評価し、組織としてその改善を図る。その繰り返しの煩わしさに耐えることこそが、医療の質と安全を担保する。
 さて、デジタル技術の社会実装は、医療のかたちをどのように変えるだろう。無論、医療が技術を使うべきであって、技術に医療が合わせるのではない、との批判もあろう。
 しかし、患者や社会の効用に視点を置けば、このパンデミック下で急速に拡充されるデジタル基盤が、元通りの医療を許すことはないだろう。やみくもな情報システムの構築に走るのは戒めるべきだが、少なくとも医療界は頭と体のウオーミング・アップを始めておかなければならない。
 済生会熊本病院は従前より、データに基づく医療を経営の骨子としてきた。その実装のためには業務のモジュール化が必要であり、当院が取り組んできたクリニカル・パス、JCIワークフロー、地域医療連携(アライアンス)はデジタル化に親和性が高い。
 院内にせよ、地域にせよ、各々の役割を明確にし、それに伴った権利と責任を与え、与えられた役割を高いレベルで果たす個人や病院が評価されるべきだろう。役割分担を促し、しなやかにつなぐのがデジタル技術であって、医療が所有から共有へ向かい、競争より協調を重んじることが社会の利得となる。
 デジタル技術の裾野は広いが、当院は2024年までの中期事業計画として、①データ分析技術②オンライン・リモート技術③RPA(プロセス自動化技術)―の活用で、高価値医療の実現を目指している。データ分析は、データの収集、加工、可視化、評価からなるが、専門部署〔当院の場合、医療情報部とTQM(トータルクオリティマネジメント)部〕が担当し、臨床現場に還元する。
 パスの改訂などがその好例だが、肝要なのは臨床スタッフが測定や評価を自ら行わず、データに基づく「改善」に徹すること。これはアスリートのアウトカムが「自己採点」でないのと同じである。自らのありようを示す数字に虚心坦懐(きょしんたんかい)に向き合えなければ、測定には何ら意味がない。
 当院は、一般的な通院加療を行う施設ではないが、オンライン技術により診療リソースを遠隔地に届けることが可能となった。専門医のいない過疎地の診療支援や、当院の提供する先端技術への他県からのコンサルトやインフォームドコンセントを円滑に行うためのオンラインブースを整備し、そのワークフローの検討に入っている。
 通信技術は着実に進歩しているので、個人情報保護やタイムマネジメントといった運用の巧拙(こうせつ)が成否の鍵を握るだろう。医療連携のオンライン化は、資源配分に権限を持つリーダーの下に多様な医療機関がネットワーク化された時、その効用が最大化される。
 パソコン上の定型業務のRPA化は、将来の人手不足への備えとなる。その導入に際しては、事前に普段の業務フローを見直すことが必須である。各種疾患の登録、文書複製、部門システムへの指示の乗せ換えなどはまさに作業であって、人が傾注すべき仕事とは言えないだろう。
 パンデミックの反動とも言えるわが国のデジタル社会への加速は、医療界の価値観を大きく揺るがすに違いない。一方、急速な科学技術の進歩に対して、それを制御すべき社会制度が追いつかない例は枚挙(まいきょ)に暇がない。パンデミックがより成熟した社会への奇貨(きか)となり得るのか、私達はこれまで慣れ親しんだ医療のかたちを終わらせることができるのか、全ては私達の選択に掛かっている。

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