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医の倫理の基礎知識 2018年版
【人を対象とする研究】H-8.ヒト胚研究

石原 理(埼玉医科大学産婦人科教授)


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1.生殖補助医療とヒト胚研究

 ヒト初期胚研究が現実化したのは、体外受精(IVF)により妊娠した児が初めて出生した1978年以降のことである。ヒト卵子や初期胚の操作を伴う研究は、生殖補助医療(ART)の技術開発が最大の直接的契機で、同時にIVFの成功がもたらした報酬としての研究分野であった。しかし、受精の瞬間をヒトの生命の始まりとするバチカンをはじめ、各方面からヒト胚研究の実行について倫理的、宗教的な疑問と懸念が示され、各国で法整備などの対応が行われた。たとえば英国では、1984年の「ウオーノック報告」に基づき、1990年に「ヒト受精および発生学法」が成立し、ARTの管理体制を構築しただけでなく、同時に(ヒト胚の地位そのものについての議論を避け)受精後14日間までの胚研究を可能とした。

 わが国では1983年に初のIVFによる児が出生したが、ARTや胚研究については日本産科婦人科学会(日産婦)の会告による規制が、現在まで唯一の規範となっている。この間、旧厚生省は1998年に「生殖補助医療技術に関する専門委員会」を発足させ、2003年に厚生科学審議会が最終報告書を提出したが、報告書で提案された法制化は今日まで実現していない。

2.ヒト胚研究の規制

 1997年に体細胞クローン羊ドリーが生まれたと発表され、クローン技術のヒト応用について、国際的に懸念が生じた。わが国では、2000年に「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律(クローン技術規制法)」が成立、次いで2001年の「特定胚の取扱いに関する指針(特定胚指針)」の公布により、ヒトクローン技術はきわめて厳しく規制された。

 わが国で1998年に組織された科学技術会議生命倫理委員会クローン小委員会が、クローン技術に関する議論を開始していた。また、1998年にヒト胚性幹細胞(ES細胞)の樹立が報告されたため、1999年からはヒト胚研究小委員会がES細胞に関する議論を開始した。米国は公的研究費によるES細胞樹立を禁止したが、日本では省庁再編の結果、総合科学技術会議生命倫理調査会が引き継いだ検討により、ARTにより作成された余剰胚によるES細胞樹立を許容する「ヒトES細胞の樹立および使用に関する指針」が2001年に公表され、研究を可能とした。また日産婦も会告を改訂し、それまで生殖医療関連研究以外への使用を禁じていた胚の研究提供を許容し、ES細胞樹立へ道を拓いた。クローンは禁止、ESは推進という基本方向性が決定されたのだ。

 一方、クローン法とES指針は、いずれも「ヒトの生命の萌芽」であるヒト胚を滅失して得られるという生命倫理上の問題があることを前提として記載され、同時期に開始された総合科学技術会議生命倫理専門調査会における議論は、その後2004年7月の「ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方(基本的考え方)」に反映された。また、原則として研究目的の胚作成は禁止だが、2011年の「ヒト受精胚の作成を行う生殖補助医療研究に関する倫理指針」は、これを限定的に認めた。

3.ヒト胚研究の展望

 胚研究は、生殖医療研究の一環として日産婦の会告に基づいて施行されてきたが、ES細胞の樹立のために胚利用の範囲が拡張された。

 「基本的考え方」にもあるように、ヒト受精胚を「人」として扱うことは、母体保護法など現行法体系と相容れず、その結果、ヒト受精胚は「人の生命の萌芽」と位置づけられた。一方、「基本的考え方」では、ヒト受精胚尊重の原則が強調され、生殖補助医療研究目的とES細胞樹立には合理性があるものの先天性の難病に関する研究目的は、容認する余地があると述べるにとどまった。

 しかし、最近の研究の展開は、「基本的考え方」を見直す可能性も示唆するに至った。それはゲノム編集技術である。CRISPR/Cas9システムにより、すでに中国などでヒト受精胚のゲノム編集が実行され、難病治療などに、今後短期間に大きな展開の可能性がある。わが国では、新たな法・指針整備、既存の法・指針の改訂などが準備されているが、胚研究の重要性と必要性について社会の理解を得て十分な管理の下で必要な研究が遂行される枠組みを早急に構築する必要がある。

(平成30年8月31日掲載)

目次

【医師の基本的責務】

【医師と患者】

【終末期医療】

【生殖医療】

【遺伝子をめぐる課題】

【医師とその他の医療関係者】

【医師と社会】

【人を対象とする研究】

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