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医の倫理の基礎知識 2018年版
【人を対象とする研究】H-12.ディオバン事件―研究者と企業の倫理

桑島 巖(臨床研究適正評価教育機構理事長)


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 ディオバン事件とは高血圧治療薬ディオバン(一般名バルサルタン)に関わる5つの臨床研究論文不正事件をいう。その中でも2009年に論文化された京都ハート研究(KHS)は製薬会社元社員が2014年6月に論文作成に不正に関与したことで、薬事法違反疑いで逮捕され、裁判となった。

 5つの臨床試験とは、慈恵ハート研究(JHS,慈恵医科大学)、京都ハート研究(京都府立医科大学)、VART研究(千葉大学)、SMART研究(滋賀医科大学)、名古屋ハート研究(名古屋大学)でノバルティス社の総額11億3,000万円にのぼる経済的支援により行われた。

 高血圧患者は3,000万人といわれるほど大きな薬市場であるが、1999年に発売されたディオバンはアンジオテンシンⅡ受容体拮抗薬(ARB)として3番目に登場したノバルティス社の期待の新薬であった。

 KHS、JHSはおのおの約3,000人の高血圧患者を対象として、ディオバンと非ARBとにランダム化して追跡、心血管合併症の発症を比較するという試験であるが、どちらもその成果は際立っていた。ディオバン群が非ARB群に比べてJHSでは39%、KHSでは45%も心血管イベントを抑制するという驚異的な結果であった。

 ノバルティス社はこれを基に、講演会や座談会で活発な宣伝を行った結果、ディオバンは年間1,400億円を売り上げることになった。

 しかし、2014年京都大学の由井医師がLancetに投稿したJHSに対するconcern(懸念)を皮切りに、試験における不正操作疑惑が相次いで浮上した。その結果、KHS、JSHなどの論文が掲載誌から撤回となり、メディアでも取り上げられた。 厚生労働省は委員会を立ち上げ、ヒアリングを行った結果、いずれの臨床試験においてもノバルティス社元社員が統計解析などに関与し不正操作を行った疑惑が高まってきた。

 厚生労働省は、元社員とノバルティス社を誇大広告による薬事法違反の疑いで検察庁に告訴し、2014年6月11日元社員S氏が逮捕される事態に至った。2015年12月裁判が開始されたが、その検察側は、復元したS氏のUSBメモリーに45例の架空症例が水増しされていたことを証拠として提出。一方、弁護側は医師側にも症例の操作があったことを主張するなど激しい攻防が繰り広げられた。

 2017年3月に下された判決結果は大方の予想を裏切って被告人(元社員)は無罪であった。被告人のデータのねつ造は認めたものの論文への投稿は、薬事法でいう、一般人の目に触れる広告には該当しないという解釈であった。膨大な量の宣伝広告に欺かれた現場の医師たちにとっては納得しがたい判決であった。検察側は控訴手続きに入り、高等裁判所で再度争われることになった。

 本事件は、わが国では臨床研究実施の基盤が整備されていないなかで、臨床試験の知識に疎い研究者たちが製薬企業社員に試験の企画から統計解析まで全面的に依存してしまったことが最大の原因である。研究者たちは研究費取得や論文、名声を優先し、企業は営利を最優先するという医療関係者として最も重視すべき患者の利益への配慮がなかったことは倫理的に大きな汚点を残した。

 本事件への反省から特別臨床研究法が制定されることになり、企業からの支援を受けた臨床研究は治験と同様にモニタリングと監査の実施が義務付けられる。また、実施計画は指定を受けた審査委員会の意見を受けたうえで厚労省へ報告することも義務付けられ、これらに違反した場合には罰則が科せられることになった。本事件では元社員が所属を偽って論文に掲載するという利益相反開示違反も浮き彫りになった。

 本件は企業の利益の追求と研究者の論文発表という業績、また研究費の確保という構図の下になされた不正行為だが、医師としては真剣に取り組まなかったことが最大の原因であり、他山の石として、今後わが国で真に患者のためになる臨床研究が推進されることを願ってやまない。

(平成30年8月31日掲載)

目次

【医師の基本的責務】

【医師と患者】

【終末期医療】

【生殖医療】

【遺伝子をめぐる課題】

【医師とその他の医療関係者】

【医師と社会】

【人を対象とする研究】

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