医学教育の展望
健康格差の時代に患者に
寄り添える医師を育てる(前編)
「健康格差時代」の医学教育
人は自分の生まれる国・時代・家庭を選べない。しかし、生育環境の違いは、教育水準や所得などの格差を生じうる。こうした、本人にはどうしようもない社会的要因が、健康状態に明らかに影響を与えるということが、研究によって次々と示されてきている。このような考え方は「健康の社会的決定要因(Social Determinants of Health,SDH)」と呼ばれ、近年国際的に注目を集めている。今回は、日本では数少ない、医学生がSDHを学ぶための取り組みを行っている順天堂大学の武田裕子先生にお話を伺った。
「社会的に良好な状態」とは何か
埼玉県三芳町の外国人向け健康相談会では、
学生もヒアリングに参加。
WHO憲章の前文では、「健康」を以下のように定義している。「病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること*」。この定義は、医学生なら誰でも聞いたことがあるだろう。だが、意味を十分理解している、と言い切れる人は多くないかもしれない。武田先生自身も、「社会的に満たされた状態」とはどういうことか、長い間理解できなかったという。
「琉球大学病院の総合診療科で外来を担当していたある日、『こいつ、朝から仲間と酒を飲んで、子どももほったらかしで』と、家族に連れられてきた離島の男性がいました。妻を亡くして何年も抑うつ状態でした。朝から仲間とお酒と聞き、『皆さんお仕事は?』と尋ねると、これだから医者は…という風に『離島に仕事なんてないよ』と。仕事があり、決まった時間に通勤するといったことが、健康を保つうえでも大切であること、また、そんな生活が決して当たり前ではないことに、その時気付かされました。」
その後、武田先生は医学教育を通じた国際協力を行う仕事で、アフガニスタンを訪れた。
「病院には、交通事故の術後の患者さんがたくさんいました。最初は医療の出番と思いましたが、次第に、なぜこんなに交通事故が多いのか気になってきました。実は、アフガニスタンでは当時、電力の供給が不安定で信号が機能しておらず、横断歩道もなかった。必要なのは電気であり、安全な道路でした。
国内であれ海外であれ、その地域に特有の社会的な背景があり、そうした状況が健康に深く影響を及ぼしている、と知りました。
その後イギリスに留学したのですが、イギリスではこうした健康の社会的決定要因(SDH)への取り組みを医学部で教育していると知り、非常に驚きました。」
*世界保健機関憲章前文(日本WHO協会仮訳)より
医学教育の展望
健康格差の時代に患者に
寄り添える医師を育てる(後編)
健康格差の実態を学生に伝える
帰国後、順天堂大学に赴任した武田先生は、学生たちがSDHを理解するための教育プログラムを開始。今年2月には、外国につながりをもつ困窮家庭の子どもを支援するNPO等と協力し、埼玉県三芳町で健康相談会を開いた。これには、順天堂大学の医学生や、医療通訳を目指す国際教養学部生も参加した。
「海外にルーツのある方は、近年日本にも増えていますよね。経済的事情や言葉の壁は医療機関への受診を阻害します。また、適切な栄養教育を受けられなかったり、食習慣の違いから、成長途中の子どもが偏った食事で育つと、将来的にも健康が損なわれるリスクファクターとなります。今回は、健康相談希望者に対する事前ヒアリングと子ども向けの栄養教室を、学生が担当してくれました。
生活保護を受けながら食費も切り詰めなくてはならない家庭があることや、助けを必要とする子どもたちを支える活動の存在を知ることで、学生の意識はかなり変わります。ただ、こういう学習は大人数ではなかなか難しいですから、今後は日々の授業や実習の中で、学生の想像力を広げるアプローチが必要です。例えば糖尿病の授業で、病態生理や診断と治療に加え、『経済的に困窮すると、安価で高カロリーな食事を摂りやすく、糖尿病を発症しやすい』といったことまで教わると、より深い学びにつながります。臨床実習でも、患者に飲酒や喫煙の習慣を尋ねるだけでなく、SDHを意識して情報収集を行い、診療録に記載するような指導があれば、様々な側面から患者の必要を考えられると思うのです。」
健康格差時代に医師ができること
先進国の中では健康格差が小さいとされてきた日本でも、近年格差は徐々に広がっている。
「健康格差や貧困の問題に真正面から取り組もうとすると、問題があまりに山積していて、無力感におそわれてしまうかもしれません。たしかに、一人の医師が直接できることは少ないかもしれない。でも例えば、福祉系の専門職の方につないだり、地域の支援活動を紹介することならできますよね。
困窮している方の中には、制度の存在を知らなかったり、時間的・精神的に余裕がなかったりして手続きができず、本来受けられるはずの支援を受けていない方も多くおられます。辛い状態が当たり前になっていて、自分が困っていることを発信できない人もいます。でも、医師も限られた診療時間の中、患者さんに込み入ったことは聞きにくい。ですから、例えば受付や会計担当の方から『ソーシャルワーカーに相談してみませんか?』などの声かけがされるような仕組みが、医療機関には必要だと思います。
医師会として、こうした仕組みづくりに取り組みたいという地区はないでしょうか。ぜひ協力させていただきたいです。」
「学び足りない」からこそ教育によって次につなげる
今年3月に公開された医学教育モデル・コア・カリキュラムにて、学修目標の一つに「社会構造(家族、コミュニティ、地域社会、国際化)と健康・疾病との関係(健康の社会的決定要因)を概説できる」ことが加わった。医学部におけるSDHの教育は今後全国的に進んでいくだろう。最後に、先生の教育にかける思いを伺った。
「医学生の中には、格差や貧困の問題について考えたこともないという人もいます。でもそれは、恵まれた家庭で育ち、これまで身近に困っている人がいなかったためです。困窮している方々の生活の状況に実際に触れて自分の考え方を振り返り、再構築することで成長する。学生のそんな姿を見るのは、教員として本当に大きな喜びです。
その昔、米国の臨床留学から帰国する時、『学び足りないことがたくさんある、分身の術を使って自分を置いていきたい!』と仲間に言うと、『だから教育があるんじゃないの』といわれました。どういうことか尋ねると、『あなた一人で学べることには限りがある。でも、日本に帰って学生や研修医を教育したら、次はその人たちが、あなたが大事だと思うことを学んでくれるでしょう。それが教育の力じゃない?』と。本当にその通りです。これからの医療を担う医学生の教育に携わり、ともに成長できることに、心から感謝しています。この仕事は私にとって天職ですね。」
(順天堂大学医学部 医学教育研究室 教授)
筑波大学卒。同大学大学院博士課程修了後、ハーバード大学に臨床留学。帰国後大学教員として地域医療教育に従事。2010年ロンドン大学留学。2014年より順天堂大学にて健康格差の現状に触れる体験教育を導入。
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