医師のみなさまへ

2019年5月1日

第1回 生命(いのち)を見つめるフォト&エッセー 受賞作品
一般の部【審査員特別賞】

「がらんどうの生」

馬場 広大(24)鹿児島県

 高校生のころ、神様に祈る真似まねをしたことがある。部活の遠征中、あまりの寂しさに耐えきれず、私は手を合わせた。チームメイトは不思議そうな顔をしていたが、そうでもしないと、私は苦しかったのである。よく知りもしない神様の存在より、祈る、という行為にすがることが、私の心を落ち着かせた。

 思えば、大学の4年間、薬を飲んでいたのも、何かにすがることにほかならないだろう。

 高校卒業後、田舎から都会の大学へ進んですぐに、症状はあらわれた。道ですれちがう人に殺されるのではないか。そんな考えが頭をよぎるようになった。やっとの思いで大学にたどり着いても、学生が、教室が怖く、授業に出られない。一人暮らしを始めたばかりで、相談できる相手はいなかった。

 心療内科へ行った。しばらくして、社交不安障害という病名を告げられた。私はそこに通い始めた。薬を服用するようになった。毎日、何錠か飲んでいると、頭がぼんやりして、余計なことを考えずに済んだ。

 しかし薬に頼ってしまってはいけなかった。私には、まず治そうという気持ちが足りなかったのである。薬を処方されることで、自分の弱さを認めてもらえる気がして、甘えた。薬を飲んでさえいれば大丈夫だと思いこみ、力を振りしぼる方法を、忘れた。相変わらず、授業には出られない。単位も落としてばかりだ。留年が決まった。心療内科へ通うペースが上がった。薬の量はどんどん増えていく。気づいたら就職活動の時期を迎えていた。私は、そのとき、心も体も限界まで鈍らせていた。

 飲みそびれた薬が空き箱にためてあった。あの夜、それに手を伸ばさなければ、泣きながら30錠まとめて飲まなければ、心療内科の先生に叱られることもなかったのだろう。踏みとどまった経験が、その後の私を立ち直らせたかもしれない。私は、越えた。1か月後には荷物をまとめて実家へ帰った。

 つらさも悔しさも失っていた。あらゆる感情は、死に近づくと、消えてしまうのである。

 あの夜、薬を30錠飲む前は、かろうじて心が生きていた。うれしいことがあると、心がうれしさで純粋に動いた。悲しいことがあると、ひたすら悲しみに暮れた。そこに混じり気はない。しかし、今はどうだ。うれしいことや悲しいことに直面しても、「一度死んだ私でも心が揺れ動くものなのか」と、わきおこる感情をどこか他人事でとらえてしまうようになった。ただ揺れ動くことがなくなったのである。どうやら私はうれしいらしい。悲しみと呼べるものを味わっているようだ。そんなふうに、深く感じ入ることのない心とともに、今も毎日過ごしている。

 私は普通に生きている自分が恐ろしいのだろう。4年間、不安にさらされるのが当たり前だったから、心が落ち着いていると、それもまた不安なのだ。死が頭に浮かぶ。そこから目をそむけられないでいる。

 昨年の末、地元で新しい心療内科を見つけ、今も通っている。薬も服用している。あの4年間よりずっとおだやかな気分で過ごせているが、それでもときどき、感じる。私は死んだようなものなのだ、と。夜の暗い川に反射する光を見て、そこへ飛びこみたくなる。しかし、一度死んだものと思っているから、飛びこんだところで、同じことの繰り返し。それで悲しむような心も、捨ててしまったのである。

 私のような人間に、成長はあるだろうか。この先も、がらんどうで生きていくのだろうか。悩みが、私に死を感じさせる。

 そんなある日、心療内科の先生が、言った。「君は今、混乱している。どうしたらいいかわからないんだ。でもね、生きるんだよ。死ではない、生きるほうに、目を向けるんだ」

 先生は、強く言った。「君は、生きる」

 あの言葉を聞いてから、少しだけだが、身の回りが輝いて見えるようになった。私が求めていたのは、理由のない生と、その肯定だったのである。

 生きるということには、意味を求めがちだ。なぜ生きるのか考えるのが、人間らしさとも言えるだろう。しかし私のように、生を放棄しかけた者は、まず意味もなく生きることから始めるべきなのである。感情がどうしたとか、死が近いなどといった心のありようから解き放たれ、ただ生きる。これを地道に続け、少しずつでも時間をやりすごすことが、生への執着を生むのだ。

 あの夜から1年半がとうとしている。今も、自分の中に細い空洞がひとつ通っているように感じる。それがなかなか悪くない。まだまだ理由なく生きている途中であっても、引き延ばされていく生の感触が、「弱く生きよう」という心持ちにさせてくれる。がらんどうだからこそ、しのげる風や、受け入れられるものもあるのだと、思い始めている。

受賞作品を読んで

生きることと、生きることの意味、作者は常にそれにこだわってしまう。それが病と言えば病なのである。
でもこれは、意識していない人が多いというだけで、現代では普通の病ではないか。生きることに意味がないのではない。生きることの意味を追求することに意味がないのである。
なぜ意味なのか。情報化社会だからであろう。情報は意味によって存在する。意味のない情報は情報にならない。消されてしまうのである。
作者の悩みを受け取りながら、そんなことを思った。日常茶飯事、それが生きていることのほとんどなのである。

(養老 孟司)

第1回 受賞作品

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