医師への軌跡

医師の大先輩である先生に、医学生がインタビューします。

教養を糧に様々な出会いと挑戦を
真部 淳
北海道大学大学院医学研究院小児科学教室 教授

多忙な日々でも趣味を忘れず

岩見(以下、岩):大学病院で研鑽を積むのが一般的な大学教授のキャリアパスですが、先生は市中病院で研究や臨床経験を積まれてから教授になられました。今までのキャリアについてぜひお話を伺いたいと思います。

真部(以下、真):医師を志したのは祖父の影響です。祖父は医師として働く一方で、短歌や絵を嗜み、郷土史の編纂にも携わる文化人で、その自由な生き方に憧れていました。私自身も音楽が好きで、北海道大学入学直後は医学の勉強よりもオーケストラに夢中になっていました。

当時の医学部は臨床実習の時間が少なく、また北海道大は放任主義で自主的に病院見学ができたので、いろいろな病院に泊まり込みで見学に行きました。白血病に興味があったので、当初は血液内科を考えていたのですが、たまたま行った天使病院で、妊産婦の精神面のケアやNICUの導入といった当時の小児科の最先端に触れ、こんな分野があるのだと衝撃を受け、小児科に進もうと考えました。

:大学卒業後は、東京の聖路加国際病院へ行かれたのですね。

:今で言う臨床研修では、25人くらいの研修医が病院に住み込んでいました。病棟で医師が足りないときは、夜中に看護師さんが起こしに来るのです。休日はないに等しく、日曜日に朝から外出できるのは月に2回くらいで、当直明けの休みもありませんでした。

:今から考えると、かなりハードな研修生活ですね。

:過酷な環境でしたが、突然一人の医師として大きな責任を負う立場になったことで、モラトリアム期間だった学生時代から気持ちが切り替わりました。

また、聖路加病院は小児がんの患者さんが多く集まる病院で、当時は骨髄移植によって白血病がだんだん治るようになってきた時期だったこともあり、この分野を究める意欲が湧きました。

日々の息抜きは音楽でした。当時はバブル期で、東京には海外から有名なオーケストラやオペラが来ていて、自分には夢のような環境だったのです。

:その後留学されたのですね。

:まず当時、新薬を使った小児医療が進んでいたイタリアへ行きました。オペラや音楽に対する関心も満たされ、楽しい日々を送りました。その後はアメリカで2年間、しっかり白血病の研究をしました。

留学するにあたり、当初は聖路加病院の小児科がどうなってしまうかを心配していたのですが、自分が一人抜けても問題なく病院は回ることに気付き、視野が狭まっていた自分を客観的に捉え直す機会にもなりました。

母校の教授となって

:その後、北海道大医学部に戻られたきっかけは何でしたか?

:機会がなく、なかなか戻れずにいたのですが、母校に何か還元したいという思いはずっとありました。教授を募集していると知り、応募したのです。

:先生は、今の北海道大医学部についてどう思われますか?

:人が増え、施設も立派になりましたし、学生はとても真面目だと思います。ただ、教養課程が1年に短縮されたことが心配です。大学は勉強をするだけでなく、教養を身につけ、生涯の趣味や友人を見つける場でもあります。学生のうちに、自分がガス抜きできる環境を作っておくのは大事なことです。知識を蓄え、多様な人と接することで、幅と厚みのある人間にもなれるでしょう。そのためには、北海道大には人の流動が少ないという弱点もあるので、外部から人が入ってくるよう、さらに魅力的な場所にしていきたいです。

医学生も医師も、様々な経験ができる可能性がありますし、キャリアを積むなかで立場が変われば、新しい視点も得られます。予想もしなかったような出会いもあると思うので、将来の自分がどうなるかを楽しみに、皆さん頑張ってください。

真部 淳
北海道大学大学院医学研究院小児科学教室 教授
1985年、北海道大学医学部を卒業し、聖路加国際病院にて卒後研修。1989年、ローマ・カトリック大学小児腫瘍科でイタリア政府奨学生として臨床研修。1990年、メンフィスのセント・ジュード小児病院血液腫瘍科にて基礎研究。1993年、聖路加国際病院小児科医幹。1997年、東京大学医科学研究所小児細胞移植科助手。2004年、聖路加国際病院小児科医長。2019年より現職。

岩見 謙太朗
北海道大学医学部医学科 5年
先生が留学を機に多忙だった研修生活から離れ、客観的な視点を手に入れることができたという話が特に心に残りました。何かに熱中するのも大事なことですが、少し冷静になってみると、また物の見方も変わってくるのだと思います。いつかのために、このことを忘れないようにしたいです。

No.37