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医の倫理の基礎知識 2018年版
【終末期医療】C-5.終末期医療の現段階―法制化の必要性からACPへ

町野 朔(上智大学名誉教授・同大生命倫理研究所客員研究員)


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1.かつては、病気、加齢、死は本人とその家族、そして、彼らに近しい人たちの問題であり、基本的には私的な領域に属するものであった。しかし現在は、人々の終末に至るまでの人生に医療・福祉のプロフェッションが関わり、人々が、病院、自宅でこれらの人たちに見守られながら死ぬことが通常になっている。個人の死はもはや純粋に私的な問題ではなく、公的な政策決定(public policy)が要請されている。終末期医療は医療の専権事項ではなく、医師と本人の「阿吽の呼吸」にのみ委ねられるものでもない。

 終末期における医療の不開始、開始された医療の中止をめぐる議論は、日本においても古くからのものであるが、現在では、気管内挿管、胃ろうから、経管栄養、中心静脈栄養などの不開始と中止の許容性、またその要件の如何が問題とされているのである。どのような状態の患者に医療の不開始・中止を行うことを認めるべきか、患者本人の意思、家族の意向はどの範囲で考慮すべきか、その認定の手続きをどうすべきか、などということである。

 日本では、終末期の患者について行われた医療の中止(抜管など)に対して警察が介入する事件がいくつか起こり[道立羽幌病院事件(2004年2月)、射水市民病院事件(2005年10月)]、国民の間に日本の終末期医療に対する不信を生じさせた。他方、日本の医療関係者たちの間では、日本の法律は不明確であり、自分たちの行動が警察の介入を招くことがないか、家族などの関係者にどのように対応すべきか分からない、などの不安があり、明確なルールを求める声が上がった。

2.以上のようなことから、終末期医療に関する法律を作ろうとする動きもあった。

 1976年設立の「日本安楽死協会」(1983年から「日本尊厳死協会」)は、尊厳死を認める立法提案を行うなどの活動を続けてきた。しかし、その内容はリビング・ウィル(Living Will;LW)の法制化であり、積極的安楽死、「医師の介助による自死」(Physician Assisted Suicide;PAS)まで合法化しようとするものではない。「尊厳死法制化を考える議員連盟」は、2012年に2案からなる「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案」を公表した。これもLWに法的効力を認めようとするモデストなものであったが、そのままでは国会に提出されることはなかった。現在は、その内容の再検討が行われているという。

3.しかし、終末期医療の問題は、現在、単なる延命医療の不開始・中止の問題を超えた医療の問題となっている。

 厚生労働省は医療関係者の不安に対応するために、「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」(2007年5月)を作った。その後、日本医師会、各医学会からも、各種のガイドラインの提言が出た。厚労省ガイドラインは、不開始・中止の要件には触れず(これは法律のみがなし得ることである)、ただ「決定プロセス」についてだけ述べた。それは、特に患者が正常な判断をし得ないときに本人の推定的意思に基づいた本人の最善の利益を指導基準とすべきこと、家族・医療関係者の話し合いによって進められるべきこと、終末期医療についての決定は担当医一人によるのではなく、「多専門職種の医療従事者から構成される医療・ケアチーム」によるべきこと、などを内容とする。厚生労働省は、厚労省ガイドラインの医療現場における普及、医療福祉従事者の支援を目指そうとしている(「終末期医療に関する意識調査等検討会報告書」〔2014年3月〕27頁)。

 厚労省ガイドラインは、その内容を維持したまま、「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」と名称を変え(2015年5月)、さらに、高齢化・多死社会の進行、地域包括ケアシステム構築に対応して、医療・ケアを病院外に拡大し、さらに、後述のアドバンス・ケア・プランニング(Advance Care Planning;ACP)の考え方を基礎とした。名称も、「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」(2018年3月)となった(「人生の最終段階における医療・ケア普及・啓発の在り方に関する報告書」〔2018年3月〕12頁)。

4.前述の厚労省ガイドラインが公表された2007年5月以後には、終末期医療に関係して警察が病院に介入する事件は起こっていないようである。このようなことから、日本では、延命治療の中止や安楽死に関する立法は、現在は必要ないという考え方が大勢を占めている。

 終末期医療の法制化は、ある範囲で医療の裁量性を刑罰によって規制しようとするものであり、以上のようなガイドライン体制下の日本の終末期医療の現実において、また、最高裁判例[最決平成21年12月7日刑集6巻11号1899頁(川崎協同病院事件)]の存在を前提にして、患者の権利保護、医療者の法的安定性保護のために、この上さらに法律を必要とする事情があるのか、もしそうなら、どのような法律が必要かを議論しなければならない。

5.終末期における患者の医療・ケアは、延命治療の不開始・中止にとどまらない。それは、患者の意思を尊重しながら行われ、その人間としての尊厳に適合するものでなければならない。そのためには、日ごろから、本人、家族、支援者、医療・福祉スタッフによる継続的なケア・プラン、ACPが行われる必要がある。日本医師会は、ACPを実践していくためには、国民がかかりつけ医をもつことを推奨し、その体制を整備すべきことを提案している(第XV次生命倫理懇談会答申「超高齢社会と終末期医療」〔2017年11月〕)。ガイドラインも、すでに述べたように、「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」となった。

 終末期医療のあり方は、「終末期」における患者が一人で行う意思決定のみによってではなく、それ以前からの、患者と支援者による継続的な意思形成によって支えられなければならないのである。

(平成30年8月31日掲載)
(令和元年6月3日一部修正)

目次

【医師の基本的責務】

【医師と患者】

【終末期医療】

【生殖医療】

【遺伝子をめぐる課題】

【医師とその他の医療関係者】

【医師と社会】

【人を対象とする研究】

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