
生殖医療にまつわる倫理的な問題(前編)
人工妊娠中絶や出生前診断に関わる議論や論点を見てみましょう。
人工妊娠中絶に関する法律上の規定
「胎児の生命についての選択を迫られる2つのケースを見てきました。このページでは、生殖医療にまつわる議論を紹介しながら、それぞれのケースを見つめ直してみたいと思います。
まず、人工妊娠中絶に関して、法律ではどのような規定があるのか見てみましょう。母体保護法(優生保護法として1948年に成立、1996年に改称)では、(1)「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」、(2)「暴行若しくは脅迫によって又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの」については、「本人および配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる」と定められています。8ページのケース1は(2)にあたると考えられるので、法律的にいえば人工妊娠中絶は認められるでしょう。
中絶にまつわる倫理的な問題
もちろん、人工妊娠中絶が法律によって認められているからと言って、誰もが簡単に中絶手術を選択するわけにもいかないことは、容易に想像できます。ここからは、人工妊娠中絶にまつわる倫理的問題について、どのような議論があるのか見てみましょう。
ケース1のAさんは、何の罪もない新たな生命を、自分の選択一つで奪うことが許されるのか、悩んでいました。このような問題は、1970年代のアメリカにおいて、pro-choice(選択の優先)とpro-life(生命の優先)の対立として議論されています*1。女性解放運動が進むなかで、母親の自己決定権と胎児の生命のどちらを尊重すべきか、衝突が起こったのです。母親の自己決定権は胎児の生命を奪う権利まで含むのか、あるいは、胎児の生命を尊重するあまりに母親の権利が軽視されることは許されるのか、意見は大きく分かれました。
医療の現場においてはこのように、複数の倫理的な原則が対立するなかで、一つの選択肢を選ばなければならない局面がしばしば起こります。ここには、もちろん決まった答えはありません。日本においても、堕胎は罪であると刑法に定められてはいるものの、母体保護法では条件つきで人工妊娠中絶が認められており、実際に年間18万件以上の人工妊娠中絶が行われています(平成26年度*2)。母親の自己決定をとるべきか、胎児の生命をとるべきか、どちらを選ぶかは、人それぞれに委ねられるのです。

*1…森岡恭彦(2010)『医の倫理と法 その基礎知識 改訂第2版』南江堂
*2…厚生労働省 衛生行政報告例より

生殖医療にまつわる倫理的な問題(後編)
出生前診断と人工妊娠中絶
さて、人工妊娠中絶に関連するもう一つのトピックとして、出生前診断があります。出生前診断とは、出生前に胎児の生死や健康状態、先天異常(染色体異常等)の有無などを診断する検査のことです。この中で特に倫理的な問題をはらむのは、先天異常の有無を診断する検査でしょう。すなわち、ケース2のBさん夫婦のように、先天異常がわかった場合、人工妊娠中絶をするのかどうかという問題が出てくるのです。
出生前診断には、大きく分けて、簡単なスクリーニング検査と、確定診断ができる羊水検査や絨毛検査があります。羊水検査や絨毛検査は子宮への侵襲を伴うため、流産等のリスクがあります。
ケース2でD医師が話しているように、近年、母体の血液を採取して行うスクリーニング検査(無侵襲的出生前遺伝学的検査、NIPT)が可能になり、話題になりました。NIPTでは、13トリソミー症候群、18トリソミー症候群、21トリソミー症候群(ダウン症候群)の3つの染色体疾患を発見できます。母体の血液のみを採取するため流産のリスクはなく、「新型出生前診断」として有名になりました。
NIPTは、胎児の命を脅かすおそれはありません。高齢出産では先天異常のリスクが高まるという情報は広まっているので、軽い気持ちで検査を受けてみようかと考える夫婦もいるかもしれません。しかし、実際に検査結果が出たときのことを真剣に考えてみると、Bさん夫婦が抱えたような葛藤を避けることはできないでしょう。
法律的に言えば、胎児に先天異常があるとわかった場合、妊娠22週未満であれば、人工妊娠中絶をするという選択肢をとることは可能です。先に挙げた年間18万件以上の人工妊娠中絶のうち、ほとんどは「(1)妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」に基づいて行われていますが、この条文の解釈は医師の判断に任せられています。いまの日本では、人工妊娠中絶をしたいと決めた夫婦は、ほとんどの場合、法的責任を問われることなく中絶手術を行うことができるのが現状です。しかし、両親が病気や障害をもつ可能性の低い子どもを選ぶこと、いわゆる「命の選別」は果たして許されることなのでしょうか。
事態をさらに複雑にしているのは、ケース1と異なり、この場合は「現在妊娠している子を産むかどうか」という問題に加えて「今妊娠している障害のある子と、その子を中絶した後に妊娠するかもしれない健康な可能性のある子とどちらを選択するか」という問題も発生するという点です。障害のある子ではなく健康な子を選択することは、例えばいま障害をもって生活している人からすれば、差別的な行為にも映るでしょう。しかし、特に高齢出産の場合、障害をもつ子を自分たちは無事に育てられるのか、幸せにできるのかといった不安を抱くのもまた自然な感情であるようにも思われます。出生前診断の技術が進歩しつつあることで、このように思い悩む夫婦は更に増えるのではないかと予想できます。
生命の操作はどこまで許されるのか
生殖補助医療の発展は、今後も続くでしょう。今回のケースで扱ったトピック以外にも、配偶者間/非配偶者間の人工授精・体外受精・胚凍結・代理懐胎など、研究は様々な分野で進んでいます。医師は、開発されゆく様々な技術について常に学び、倫理的な観点で見たときに果たして実行していいのか・実行すべきなのか、判断しなければなりません。みなさんは、目の前の患者が最善の選択をできるよう、法律やガイドラインをはじめ、最新の情報を収集しながら考え続けなければならないのです。




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