XX年目のカルテ

医師がキャリアを積んだ先にはどのような道が開かれているのでしょうか?開業医・病院の院長・大学教授という各分野で活躍されている先生方にお話を伺いました。

希望から最も遠い人たちのため力を尽くす
【開業医】坂野 真理医師
(虹の森クリニック 院長・虹の森センターロンドン 代表)

臨床に従事しつつ政治家を目指す

――坂野先生は、医学部時代から政治家を志望されていたそうですね。

坂野(以下、坂):はい。政治家だった祖父や、学生団体での活動の影響を受け、漠然と「社会を変えたい」と考えていましたね。

卒後3年目には松下政経塾に入塾しました。松下政経塾は自分が人生において何を成したいかということを3年間ひたすら考えさせるところです。例えば政治家志望の人の場合、「なぜ政治家になりたいのか」「どんな社会を作りたいのか」「その思いは自分の人生の目的とどう合致するのか」ということを考え抜くのです。私も様々に考え抜いた結果、「希望から最も遠いところにいる人たちのために働きたい」という思いを抱き、今も人生の指針としています。

――そうした思いを抱くようになったきっかけはありましたか?

:政経塾3年目にテキサス州ヒューストンの公的病院で事務のボランティアをした経験が強く影響しています。そこは無保険の人を受け入れる病院で、アメリカ社会の貧富の格差を目の当たりにしました。

また、当時はハリケーンがルイジアナ州などに大きな被害をもたらし、隣のテキサス州にも困窮した避難民が多く流入してきていました。そうした状況下で、わずか10歳ほどの子どもたちが希死念慮を抱き、小児救急に次々と運ばれてくるのです。日本の小児科医療とは全く異なる光景に衝撃を受け、「絶望の中にいる子どもたちも希望を持てることが、良い社会であることの一つの指標になる」と考えるようになりました。また、臨床医としては児童精神科を専門にしようと決意しました。

――政経塾修了後、しばらくは臨床医として働かれたのですね。

:鳥取県の倉吉病院の精神科で、成人も含めた診療経験を積みつつ出馬の機会を待ちました。臨床医と政治家というとかけ離れたもののように感じるかもしれませんが、私の中では「困っている人たちのために働く」という点で地続きのものでした。

その後、選挙で落選するなど様々な経緯があり、政治の道は諦めて臨床医一本で働くことにしました。倉吉病院以外にも様々な病院を経験し、児童精神科の専門的な勉強もする必要があると考え、東京大学医学部附属病院の「こころの発達診療部」を経てイギリスに留学しました。

理想の医療を実現するために

――先生はなぜ開業されたのですか?

:一番のきっかけは、倉吉病院で診た小学校低学年の男の子の存在です。発達特性も影響して暴力的になってしまう子でした。家庭環境も複雑で、児童相談所や役場など様々な機関が介入するものの、介入先でも次々と問題行動を起こし、居場所を失ってしまっていました。

児童精神科では関係者からたくさんの情報を集めて密に話し合う必要がありますが、診療報酬上はそうした時間を割けず、薬物療法が中心になってしまいます。しかし、特に発達特性が原因となっている場合、投薬は対症療法に過ぎません。しかも先ほどの男の子のケースでは、副作用が強く出る一方であまり効果は得られませんでした。療育や心理療法中心の医療の必要性を強く感じるようになりました。

倉吉病院は私のわがままを多く叶えてくださった懐の深い病院でしたが、いち勤務医としてできることにはどうしても限界があり、自分の理想の医療を行うためには開業しかないと考えるようになったのです。

――先生が開業された虹の森クリニックのコンセプトについて教えてください。

日本のクリニックのセラピールーム。
アットホームな雰囲気にすることを意識している。

:心理療法中心の治療を目指しており、診療報酬上の制約を補うために、福祉の制度も利用しながら運営しています。

また、院内の雰囲気も子どもに寄り添うようなものにしています。病院はもともと注射などのイメージがあって行きたがらない子も多いですし、人の目が気になる子などは、待合室に人がいるだけでも苦痛に感じてしまいます。親御さんも、我が子を精神科に連れていくことに気後れしてしまいがちです。その点、イギリスで見たクリニックはどこもこじんまりしていて、誰かのおうちに遊びに行くような雰囲気があり、それを参考に院内のインテリアを整えています。

――クリニックを運営するうえで困っていることなどはありますか?

:クリニックの採算を取ることは本当に難しいです。また、引きこもりの子や不安が強くてクリニックに継続して通院できない子などとつながることにも困難を感じています。往診することもありますが、行き来する時間も含めると1回数時間程度かかることもあり、往診だけを継続するにはとても採算が合いません。また学校や役場と支援会議を開いて連携しながら支援を行うにも、診療報酬面のインセンティブはありません。もっと丁寧に関われるように、医療の仕組みが変わることを切望しています。

イギリスと日本を行き来して

――2020年からはロンドン支部も開設されました。その理由を教えてください。

:在英の日本人で困難を抱える人たちにアプローチしたいというのが理由の一つです。また、イギリスには日本では考えられないような過酷な状況にある子どもたちがいます。アフガニスタンで目の前で親を殺され逃げてきた子、政治情勢が不安定な国に生まれ、親が「子どもだけでも」と飛行機に乗せたものの、頼れる人もビザもなく英語も話せず保護を受ける子…。さらに、小・中学校でも麻薬が蔓延しており、ギャングに取り込まれる子も少なくありません。こうした子どもたちのためにも何かしたいという思いに駆られたのです。

――今後の展望をお聞かせください。

:ロンドン支部では現在、日本人向けにカウンセリングを行いつつ、イギリスでの基盤作りをしているところです。今後は、現地の本当に困っている子どもたちにもアプローチできるような方法を模索していきたいと思います。

日本のクリニックでは、日本とイギリスの「いいとこどり」をしていきたいです。例えば、イギリス社会では日本より個性が認められる傾向があるので、そうした日本以外の視点を子どもたちが知ることで、生きやすさにつながればと思っています。

坂野 真理

日本医科大学卒業。「希望から最も遠いところにいる人たちのために働く」を人生の目標とし、鳥取県倉吉市で虹の森グループ(虹の森クリニック・こころのデイケア虹の森)を開業。現在は虹の森センターロンドンの運営にも奮闘中。二人の息子の母。

※取材:2022年10月
※取材対象者の所属は取材時のものです。

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