周囲の理解と支援があれば、医師・母・妻を両立できる~小児科医 大津 定子先生~(前編)

大津先生

今回は、自身も3人の子育てを経験された小児科医として、被災地の小児保健の再興に尽力され、地域の児童や親たちに温かいまなざしを向ける大津定子先生にお話を伺いました。

医師会長代行として震災対応

保坂(以下、保):大津先生は、先の東日本大震災において、気仙医師会の会長代行および岩手県医師会役員として、復興に尽力されました。

大津(以下、大):実は私は発災時、骨折の治療中で、車椅子の生活を送っていました。あのときの私は医師というよりただの老婆で、何もできなかったんです。発災から2週間ぐらい経って、ようやく地域一帯の安否が確認できたのですが、会長・副会長は亡くなり、総務部長も自宅が全壊して仙台で療養中だとわかりました。混乱の中、同じく副会長だった私が会長代行を務めるしかなかったのです。事務的なことも全てやらなければならず、とにかく必死でした。

保:地域医療の再興を図る上では、DMATやJMATなどの支援団体、医師会や自治体など、それぞれができることをつないでいく必要があります。この「つなぐ」というのは機械的なシステムではなく、人と人との関係でできることですから、基点となった大津先生の存在は大きかったですね。

大:仮設診療所を建てる際も、プレハブが逼迫していました。保坂先生のご尽力で、避暑地の別荘などに使われるトレーラーハウスの寄付が実現したことは、復興への大きな一歩になりました。トレーラーハウスは、今も高田診療所の心療内科・眼科として使われています。

保:また大津先生は小児科医として、被災地の小児保健の再興にも力を尽くされていますね。

大:ええ。震災のような緊急の場合、まずは命が優先されますから、乳幼児健診や学校健診はどうしても後回しになっていました。沿岸部ではこれまで学校医を担当していた医師が診療を再開できない状況だったため、陸前高田・大船渡地区に小児科医を派遣いただけないかとお願いしたところ、日本小児科学会と日本小児科医会という2つの団体が協力して、中長期的に医師を派遣して下さることになりました。息の長い支援をお願いできたのは有り難かったです。

周囲の理解と支援があれば、医師・母・妻を両立できる~小児科医 大津 定子先生~(後編)

医師・母・妻として…

保:先生が医師になられた経緯をお聞かせいただけますか?

大:高校の担任の先生に「医学部に行かないか」と薦められたのがきっかけでした。気仙大工だった父は私が医師になることに反対したのですが、当時私の家によく出入りしていた近所の「おんちゃん(お兄さん)」に後押しされて、岩手医大に入ることにしたんです。

保:その「おんちゃん」が今の旦那様なんですよね。

大:はい。大学3年生の時に結婚し、大学5年生の時に1人目、インターンの時に2人目を産みました。当時はまだ女性医師は珍しく、同じ年に岩手医大を卒業した75人のうち、女性は5人だけでした。当時はそれでも多い方でした。子どもは全部で3人で、3人目は開業前に県立大船渡病院で小児科長を務めているときに産みました。

保:ずっと仕事と育児を両立されてきたんですね。ご苦労も多かったのではないでしょうか。

大:大変でしたよ。母に頼りながらの育児でした。大学院にも入ったので、診療に加え、学位を取るために夜遅くまで実験をしたりもしていました。でも心強かったのは、医局の先生たちがみんなでカバーしてくれたことです。私のことを親しみを持って「おばちゃん」と呼んでくれて、「おばちゃん、子どもの運動会なんだろ?休み、取りなよ!」「おばちゃん、日直は俺がやるからさ!」って。産休・育休のときも、医局から応援を送ってもらえました。そうしたサポートがなければ、ここまで続けられなかったんじゃないかなと思います。

一度、本当に辛くて、先輩の先生に医師を辞めたいと相談したことがありました。そうしたら、医師として時間を割くのが3分の1、母親が3分の1、妻が3分の1。それでいいから働き続けなさいと諭されたんです。まあ、それならやってみるかと。でも今考えると、実際には医師に7割ぐらいのエネルギーを割いてきたと感じますね。娘たちにびっくりされましたよ、「お父さんのワイシャツのサイズも知らないの!?」って。首周りや袖丈なんて全然知らなかった。主人はずっと、自分のことは自分でしてくれていたんです。

保:そうしたご主人や周囲の理解があったからこそ、続けてこられたのですね。平成25年には、複数校での学校医を45年続けた実績から、瑞宝双光章を受章されていますね。

大:不思議なものです。軽い気持ちで医師になった私が、勲章まで頂いたなんて。だからこそ、本当に医師になりたいと思ってなった人には、やっぱり仕事を続けてほしいなと思います。ただ、まだまだ日本社会には「家のことは女性がやるべきだ」という風潮もあり、女性医師もそうしたあり方を求められる場合がありますから、周りのサポートがなければ難しいですよね。

保:これからの世代の女性たちが医師として働き続けることができるよう、私たちが環境を整えていかなければならないと思っています。そして、与えられた環境をどう捉えるかという本人の感性も大事。頑張りすぎてしまう人もいるし、逆にもっとできるのに一線を退いてしまう人もいますから、その人にとって好い加減、良い方向を示してあげるのが私たち先輩の役割ではないかなと思っています。また、自分だけではどうしようもないときに、人にやってもらう能力も必要だと感じますね。

未来を担う子どもたちのため

大:少し前に主人が大きな病気をして、今は主人の介護をしながら仕事をしています。これまでで今が一番、医師を辞めたいと感じますね。ただ、これがなかなか辞められないんですよ。

保:今まで7割で医師をやってこられたんですものね。

大:ええ。私、結局のところ医師しかやれることがないんですよね。歳をとって、子どもたちも大人になって、余計にそう思います。今辞めたら、自分が自分でなくなってしまうような気がする。だから、いつ辞めようか、いつ辞めようかって考えながらも、毎日診察室の椅子に座ってしまうんです。

保:先生をつなぎとめているのは、やはり小児科医としての責任感なのでしょうね。

大:そうですね。抱っこのやり方や離乳食の作り方がわからないと言ってお母さんたちが来るたび、私のアドバイスが役に立ってほしいという思いが強くなります。震災を経験してからは特に、生活の知恵が本当に重要だと思うようになりました。例えば子どもが固いアイスノンを嫌がるなら、紙おむつに水を含ませて冷蔵庫に入れておけば、柔らかくて冷たい水枕ができる。そうした生活の工夫を、育児の様々な場面にも取り入れてほしいですね。また、2013年には、大船渡市教育委員会主催で2004年から続けていた小学5・6年生向けの「赤ちゃんふれあい体験学習」を、震災以来2年ぶりに再開しました。小児科医であり続ける限り、これからの社会を支える世代に、命の尊さを伝えていきたいなと思っています。

 

語り手 大津 定子先生(写真左)
気仙医師会 参与
岩手県医師会 女性医部会 副部会長
岩手県大船渡市 大津医院 院長

聞き手 保坂 シゲリ先生(写真右)
日本医師会 女性医師支援委員会 委員長
日本医師会 女性医師バンク 統括コーディネーター

No.12